【鬱とは何か】鬱のメカニズム及び自分一人で治す「否定」からのアプローチ法

「鬱」フォント

注)あくまで本記事の情報は、実際に鬱になった経験を基に鬱病という病気を考察した一個人・素人の意見であり、専門家の見解ではありません。

前回の記事では、私が鬱になったきっかけやその兆候について述べました。

そして、今回の記事では自分が寛解するまでの過程で「鬱とは何か」という考察から導き出された別視点での寛解アプローチ法について述べます。

鬱とは何か

鬱状態を改善するためには、そもそも「鬱とは何か」ということを理解することも糸口になるかもしれません。

そして「鬱とは何か」ということを理解する為には、私達が「ヒト」という生物である以上、避けられない呪われた特性があることも踏まえなければいけません。

何度も申しますが鬱というのは、私達が高い知能と引き換えに得た隣人なのです。

「鬱」フォント
依然として「鬱」が漢字で書けません

しかし、以下に続くのは「セロトニンがどうだ」とか、そういう説明ではありません。

そういう説明はネット上にいくらでも転がっていて、しかるべき専門家に尋ねれば詳しく教えてもらえるのでしょうが、そういう風に鬱を理解したところで何も解決しないという事実があります。

また、たとえ病院に行って脳内物質に働きかける薬を貰っても、薬漬けになるだけであまり良くならない可能性があるというのがこの病気の厄介な所でもあります。

鬱病という診断を貰っても同様です。むしろ診断がつくことで閉ざされる将来もあります。

それに医者というのはそれを職業として生きている以上、金儲けをするためにあえて治さない場合もあるので、あまり手放しで頼り過ぎてはいけないのです。

結局、「鬱」を診断するのにすら客観的な指標が現時点で存在しない以上、如何に主観的に対応するのかということが問題なのです。

その点では、カウンセラーの方が幾分マシであると考えます。

それで私は、自分のアプローチを紹介しています。

前置きはさておき、まず私が鬱になって気付いたヒトの根本的な特性は以下の2点です。

特性①:ヒトの脳は出来事に理由や意味を求めたがる。

特性②:ヒトは与えられた環境に対して自身にとって最適な行動を必ず行っている。それは生存に繋がる確率が高いからである。

それで、「鬱とは何か」という問いに対して私はこう答えます。

「鬱」とは:自身の力ではどうしようもない目の前の理不尽な現実に対する反応である

どういうことか順に説明していきます。

まず特性①について、私達の脳は出来事に対して理由や意味を求めたがります。

これは人類が高い知能を得たが故に得た特性です。

この特性によって生まれた人類最大の発見が「科学」であり、今や私達はスイッチ一つで火を起こすことが出来ます。

また、私達は科学のような理を信じる一方で、「神」のような目に見えない存在をどこかで信じています。

それはそのような超自然的存在を信じることで理屈では説明出来ない出来事に「神の意志である」という意味を付けることが出来るからであり、それにより精神が安定するからです。

従って科学という理論も、神という存在も、全てはこの特性から生まれているのです。

それは恐らく、「死」という生物最大の恐怖から如何に逃れるかというヒト独自のやり方なのだろうと考えます。

それは特性②にも繋がる話です。

生物である人間は、生存して繁殖することが本能としてプログラミングされていて、「死」から逃れ続けること、つまり生き続けることが第一になっています。

そのために、私達は目の前の状況に対して行動を選択することを常に迫られています。

そして大体の場合、私達は与えられた状況下で「生きる」ための選択を直感的に選び続けています。これは本能レベルの話ですので、理性で簡単に制御できるものではありません。

それは後で俯瞰した際に如何に愚かな選択に見えても、その瞬間の選択は主観的には最高のものです。

私達は自分に与えられた情報と自身の選好性や能力を照らし合わせて、利益を最大化するような選択をほぼ自動的に行っているはずです。

従って、どのような行動でも当人にとっては最適の行動になっています。

そうすることで、自分が生存する可能性が高くなるからです。

この2つの特性は続く「離人症」に関する話にも繋がりますので、頭の片隅に留めておいて頂きたいです。

鬱になるメカニズム

以上に説明した特性を踏まえて考えて頂きたいのですが、もし私達の目の前に「どうしようもない現実」が立ち現れた場合、どのようになるでしょうか。

まず、特性②によって私達は自身の生存できる可能性が高そうな行動を選択します。

しかし、絶望的な現実を前にそれを自ら打開できる選択肢は残念ながらありません。「逃げる」という選択肢すらも取ることが出来ないのです。

ポケモンで例えると、野生のポケモンとレベル差があり過ぎて攻撃技も全然ダメージが通らず、逃げようにも素早さに差があり過ぎて「逃げることが出来ない!」という状態です。

ここで私達は一旦フリーズしてしまいます。前にも後ろにも、横にも上下にも動くことが出来ないからです。

そして、特性①によって「何故」動けないのか考え始めます。

ここに至り、私達は鬱になるかどうかの分かれ道に立たされます。

選択の果てが「鬱」
選択の果てが「鬱」

「自分ではどうしようもない現実」という理不尽な環境に、それでも生きるためにどのように適応するかということを2択で迫られます。

①「自分が悪い」という理由を付けて、脳を満足させる

②「理由のない」現実に当たって、砕ける

①を選択すれば、これはほぼ確実に「自己否定」のループに入って鬱状態になります。

自分が悪い→現実は依然として目の前→最適な行動を選択→自分が悪い→……

という連鎖は雪だるま式に自己肯定感を奪っていき、いずれ鬱状態になって本当に身動き出来なくなります。

ちなみに、躁鬱の躁状態とは考えが「世界が悪い」という方向に振れる場合に起こっていると考えます。

それで自分は世界に対して何でも出来るような気になってしまうのですが、現実というのは何も変わっていませんので、いずれまた「自分が悪い」と思うようになります。

一方で、②を選択すれば鬱にはならなくとも「思考」を失います。

「理由が無い現実」というのは人間にとっては「死」と同列のものであり、これを乗り切るために逆に思考を停止させるという考えです。

そして、思考回路を焼き切った後で目の前に与えられた課題を淡々とこなしていくのです。未来は考えず、意思も持たず、現実が変わるまで死なない限りは目の前のことに反応して動くだけです。

しかも、そのように動くことが出来ればまだ運が良い方です。

場合によっては目の前に与えられた課題が許容量の限界を超えて再起不能、最悪死んでしまったり、現実を「死」と錯覚した身体がその苦痛に備えて身体のスイッチを切り替えてしまうこともあるでしょう。

従って、取り合えず現実を受け入れるのは必ずしも正解という訳ではありません。

このように実は、私達は鬱になるかどうかの分かれ道で「思考」を取るか、「鬱」を取るかの選択に迫られるのです。

その意味でも最初に述べたように、鬱は高い知能と引き換えに得た隣人なのです。

このように、鬱になるメカニズムというのは実に単純だと考えます。

自分の力ではどうしようも出来ない現実に直面したときに、その理由や意味を探した結果「自分が悪い」という考えに至り、依然として変わらない現実を前に導いた最適解である「自己否定」という選択を続けている結果が鬱なのです。

故に「鬱」とは自身の力ではどうしようもない目の前の理不尽な現実に対する反応なのです。

そして、それは本人にとっては最適の選択を行った結果であって、「考え方を変えよう」とかそういう問題ではないのです。

むしろ、脳が正常だからこそ陥る可能性が高い病なのです。

私が提案する「否定」からの寛解アプローチ

以上の特性を踏まえて、以下からは私が実践した鬱を改善するアプローチを紹介していきます。

その前に少しだけ事前準備と説明を行います。

私のアプローチは上記の「自己否定」に陥ったパターンのアプローチです。

一方でネット上の殆どのアプローチというのは、「思考」を如何に放棄するかという方向性であると思います。

従って筋トレとか旅行に出かけるとか、瞑想やぼーっとしてみようとか、そういった「頭を使わない行為」を勧めているのです。

(※もちろん、生活リズムを整えることやストレス発散で改善する面はあるのですが。)

そして、この方法は一人で行うことが出来ます。それに、外に出る必要も早く起きる必要もありません。

しかし、極力何もしなくても良い期間を1ヶ月程度、出来れば2~3カ月程度設けるために事前に準備をしておくことを推奨します。

そして、スマホ等のネットに接続出来るものは電源を落として、ネット断ちして下さい。

一人になる時間が必要です
一人になる時間が必要です

十分な期間と外部情報の遮断が必要です。

それは自分にだけ向き合う時間を確保するためです。日々の生活というのは雑音が余りにも多すぎます。

私としては「自分一人で出来る」・「部屋の中だけで出来る」ということが今から紹介する方法の利点だと思っています。

よく鬱に関するネット上の記事では「周りに頼ろう」とか書いてあるのですが、そういう人が周りにいなかったり、人に頼れないからこそ鬱になる面はあると思うのです。

私も鬱になった大学生の時は周りに心を開ける人がいなかったからこそ鬱になった面がありましたし、離人症状が出た時には家族でさえも理解を示してくれませんでした。

メンタルヘルスというのは、基本的に孤独な戦いです。自分の頭の中は自分にしか分かりません。

それに何より、鬱になれば外に出ることすらしたくない・出来ないものでしょう。

少なくとも私は、鬱がマシになってくるまでは殆ど動けずにベッドの上で過ごしていました。それで、幸か不幸か病院に行っていないのです。

最大の自己否定は「生きること」

さて、肝心の方法ですが至ってシンプルです。

否定できなくなるまで、徹底的に自分を否定してみて下さい。それだけです。

とは言っても、この否定というのは「私はダメなやつだ」などと曖昧な否定を繰り返すだけではいけません。

「何故」私がダメなやつなのかという風に、一つ一つ理由を辿って行ってその根本を見つけてみて下さい。

そして、一見否定できないような「容姿が悪いから」、「生まれが悪いから」といった遺伝的・環境的要因でも、まだまだ否定できる余地があります。

というのも、そういった自然的なステータスというのは基本的に存在しているだけであって、「悪い」という価値づけをしているのは結局自分だからです。

「何故」を突き詰めてみて下さい。それがあなたを苦しめているのです。答えは一つに収束します。

ともかく、正面から自分と向き合ってキチンと自己否定してください。

自分と世界の可能性を一つずつ否定して行ってください。一度否定したものとその理由を書き出していくのが効率的でいいかもしれません。

その思考というのは哲学的な問答にまで及ぶはずです。

すると、どうしても否定できないものが見えてくるはずです。

それは「否定している自分」という存在です。

デカルトの「我思う、故に我あり」ではないですが、何かを否定出来ている間というのは生きているという証明に他なりません。

結局、人間という浅ましい生物は鬱のような辛い状態にあっても尚生きようとしている訳です。

思考は自己否定のループに陥り、肉体が上手く動かなくなっても尚、否定を続けることで醜くも生を継続させようとしているのです。

そのことに気付けば、後はもう一歩です。

「否定している自分」を更に自己否定するには「否定する」ことを否定するしかなくなります。

つまりは否定が肯定に裏返る訳ですが、この段階が最も難しく、キツイです。否定できるものが残っていないので。

私も、この段階に近づいた頃辺りが心身共に最もしんどかった覚えがあります。離人症状もこの辺りから出始めた気がします。

それまでの否定は鬱状態でも行っていることで比較的簡単に出来ることなのですが、この最後の否定に関しては、そう簡単に出来るものではないです。

死にたい・消えたい・自殺したい……

これらは鬱になると日頃よく考えることですが、結局それらも「自らの生を否定している」という点で自己否定という現時点での最適解を取っているに過ぎず、本質的には「生きたい」と何も変わらないのです。

どれだけ辛くとも、です。

変な話、自分に対する最大の否定というのは「生き続けること」なのです。

だから、生きるのがある意味一番しんどい事でもあります。

だから、死ぬのも仕方ないことで、それはそれで良いと思います。

その答えに気付いた頃というのは私には朧げな記憶しかないのですが、鬱状態というのはかなり重大なものになっていて、確かほとんど何も食べずに数日ベッドの上にうずくまって過ごしていたはずです。

部屋で見つけた、干からびたキャラメルを2つほどは食べたかもしれません。

数日して、買い出しも行ってなかったので食料が無く、空腹に耐えられなくなったので外に出ました。醜いですね。結局生きたいのです。

身体が栄養を欲しがったのでしょうか。

外に1週間ぶりぐらいに出てみると何故か無性にカレーが食べたくなって、当時はまだ存在していた三条駅近くのゴーゴーカレーをそのまま食べに行きました。

肝心のカレーの味はあまりしませんでしたが、その帰り道、三条大橋を歩いていると頭の中でいきなり「バチッ」というまさしく電流のようなものが走った感覚がして、それと同時にハッとしたのです。

「ああ、そういうことか」と。

そこからは少しづつ鬱の症状が改善していきました。

とは言っても、途中にも離人症状などに苦しめられたりして、結局大学生生活は全て棒に振ってしまったのですが。

しかし、私は既に鬱になる以前・鬱で苦しんでいた時とは決定的に違う生き方になっていました。

もちろん、今も普通に落ち込んだり、嬉しかったりします。そういう感情は、人間という動物である以上無くなりはしません。

ただ何と言うか、前よりかは素直に生きることが出来るようになりました。前にある現実を受け入れる他ないなと分かってしまったからです。

結果的には思考を放棄したのと同じだったのかもしれませんが、考えるだけ考えて行き着いたということには価値があると思います。

そして私の運が良かったことは、私が余裕のある大学生で十分な時間が確保できたことと、この結論に至るまでの色々な知識の素養があったことです。

だから、これは世の中に還元しておかなければならないということです。

普通の方法でダメだと思った人は試しに飽きるまで、自己否定してみて下さい。

結論も示しておきましたので、思う存分自己否定出来ると思います。

自分の「生」を受け入れる他ないのです。そうすれば何か見えてくるかもしれません。

では、さよなら。

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