(鬼側ですが、個人的には「童磨」が富岡の次に好きです。)
最初にお断りをいれさせて頂きます。
一連の分析を書くにあたり、十分に『鬼滅の刃』を読み込み、自分の中である程度まとまった文章に出来るまで理解に落とし込んだつもりだったのですが、本記事を書いている途中に私の考えの至らなさを気付かされてしまいました。
それで、どうしようかと悩んだ末途中で分析記事を書くのを止めてしまいました。申し訳ございません。
私が途中、何に気付いてしまったのかをご覧ください。
漫画作品を構成する要素の内、最後の「漫画技法」について『鬼滅の刃』を見ていきます。
「漫画技法」はこれまでの【シナリオ編】と【イラスト編】で考察した要素を漫画作品としてまとめ上げる結節点であり、ここに最も作家の個性が出ると考えています。
目次
『鬼滅の刃』の表現の特徴
「漫画技法」というのは、ここまでに分析を行ってきた【シナリオ】と【イラスト】を「漫画作品」としてまとめ上げる結節点です。
例えば、コマ割りや視線誘導、セリフ回しなど漫画を漫画たらしめる技法や枠組みです。
従って、この要素にこそ漫画家の個性が出ると私は考えているのですが、全てを分析するのが難しい要素でもあります。
というのは、この「漫画技法」というのは非常に総合的な要素で、それを分析することは、まさに作家の「呼吸」を感じ取るようなものだと考えるからです。
作家独自のリズムと言いますか、作家の思考から無意識までがまとめて「センス」として立ち現れてくる部分ですので、結局は感覚的で言語化が難しい要素が入り混じってきます。
ただ、やはり特徴的な部分は際立つので、以下のように個別に要素を切り離して取り上げることが出来る、そんな特性があると思います。
それでは、『鬼滅の刃』で何が特徴的な表現なのかということなのですが、私は以下の3点+1点の計4点を挙げたいと思います。
①心理描写及び状況説明の多用(四角ゴマの多用)
②戦闘のエフェクト
③比較構造・対称構造
④全ての背後にある作者の内面
四角ゴマの多用
これは漫画を普段あまり読まない人達も思ったことではないかと考えるのですが、『鬼滅の刃』という作品はとにかく「四角ゴマ」が多いです。
「四角ゴマ」というのはその名の通り大ゴマの中に入っている四角の小さいコマのことを指すのですが、その役割としては主に「読者への説明」、つまり「5W1H」や「言外の心中」などがあります。
ちなみに、会話に使われる「吹き出し」はキャラ同士のやり取りに使われますので、読者の存在は基本的に想定されていません。
そして『鬼滅の刃』を読み進めると、この「四角コマ」が下手すると吹き出しよりも多く目に飛び込んできます。
それは即ち、多くの部分で作者が読者への説明を行っているということなのですが、『鬼滅の刃』での説明は特に以下2種類の説明が多かったように考えます。
①キャラクターの心情描写(心中の声)
②バトルに関連した補足説明
そして、その比率というのも前者のキャラクターの心情描写の方が圧倒的に多いのであって、体感としては8対2ぐらいの割合だったように思います。
このことが示唆するのは『鬼滅の刃』はバトル展開よりも心情描写に重きを置いた作品なのだろうということです。
そもそも、わざわざ限られたページのスペースを割いてまで作者が描くということはそれが表現したいことです。
ですので、全体の中での分量を見るだけでも心情描写に重きを置いているのは間違いないです。
ただ、私が注目したいのはそれ抜きにして、バトル展開自体が「心の中」によって解決される場合が大半だという事実です。
『鬼滅の刃』のバトル展開の特徴は一言で表現すると、「自己完結」だと私は考えます。
すなわち『鬼滅の刃』において、ピンチに陥った際や最後の打開といった、ここぞの場面でキャラが力を振り絞る時というのは、回想に入り、時には記憶を辿り「心を振り絞る」ことで解決することが多いということです。
バトル漫画に多い「必殺技」を繰り出すのではありません。
この傾向は特に炭治郎の戦いについて見られます。
例えば、最終決戦の対アカザ戦においては、純粋な技の応酬では押され続けていたものの、回想に入ることでアカザの「闘気」を感じ取る羅針盤とそれを打開する「無我の境地」という答えまで見つけてしまいました。
しかし、私達読者の視点からすると、炭治郎の心の中というのは「四角ゴマ」で作者から説明されて初めて知る訳ですから、読者が「そんなことを知ってたんだ・考えていたんだ」と思った次の瞬間に炭治郎が強くなっていて、ピンチを切り抜けている訳です。
極め付けは、主人公が必殺技を繰り出して、スカッとバトルを終わらせることをしないということです。
上述の対アカザ戦では、アカザに留めを刺したのはアカザ自身であり、それは炭治郎のすっぽ抜けパンチがきっかけとなりアカザの「心の中」が絞り出されたからでした。
それで思い返してみると、『鬼滅の刃』において必殺技で勝負の決着が着いた戦いはかなり少ないです。
上弦の戦いについて言えば、「必殺技」で決着が綺麗に着いた戦いというのは上弦5の霞柱ぐらいではないでしょうか。
敵が自身の過去回想を行わなかったのが上弦5のみという点でも、この事実は裏付けをされています。
これは正直、バトル漫画、特に少年漫画のセオリー的にはいかがなものかと思います。
従来のバトル漫画というものは、主人公や味方が敵を倒すときには「必殺技」で相手を倒すというセオリー展開があります。
一方で『鬼滅の刃』にはそういうシーンが実はあまりない。
だから、『鬼滅の刃』はバトル漫画というよりかは心情描写に重きを置いた漫画なのだろうという風に評価出来ると思います。
……しかし!!
ここまで書いてきて、私はようやく気付いてしまったのです……!!
作者の吾峠先生は「人の想い」こそが「必殺技」であり、敵を倒すのも主人公(個人)である必要はなく、その「想い」を継いだ人間達であればいいのだというメッセージを込めていたのです。
だから、敵を倒す時には「技」ではなく「心」を使い、ラスボスである無惨を倒すときには柱からモブ隊員まで含めた「鬼殺隊」一丸となって戦ったのです。
そう考えると『鬼滅の刃』という作品は、本当に最初から最後、本筋から枝葉まで主張や思想、構成など全てが一貫している作品なのだと。
もうこれは、「バトル漫画」だとか「心情描写」だとかそういう風なチンケな枠組みで捉えるべき作品ではないと気付いてしまいました。
……。……。
吾峠先生。ごめんなさい。
私が浅はかでした。
本当は何様目線で他の技法についても分析を残しておこうと思っていたのですが、もうダメです。
皆さん、『鬼滅の刃』という作品は本当にすごい作品です。
『鬼滅の刃』感想まとめ
という訳で、途中でありますが分析はもう終わりです。
もしかしたら、ふと最後まで頭の中の分析を書き切るかもしれませんが、ちょっと今は自分の分析の甘さに萎えてしまいました。
この段階で気付いてしまうのか……という次第です。
最後に純粋な読者目線の感想を書いておきます。
『鬼滅の刃』は連載の第1話から読んでいて、単行本も途中まで揃える程度には好きだったのですが、あるタイミングで読むのを辞めていた時期がありました。
それは今まさに劇場版として盛り上がっている煉獄さんが死ぬ辺りなのですが、何故読むのをそこでやめたのかというと、妹に「この人(煉獄さん)少ししか出てないのに死なれてもあまり感動しない」と言われたからでした。
当時、私は「確かに」と思って、連載も単行本も追うのも止めたのですが、アニメが盛り上がってるぞという第2次?ブームに合わせて本編をまた連載で追い始め、最終回まで読みました。
そして正直、最終回まで連載で追った時の感想は「まあ、こんなものか」という特別思い入れがあったものではありませんでした。
「なんで『鬼滅の刃』がまた流行っているのだろう、不思議だな」ぐらいの感想です。
それで、連載終了後も特段『鬼滅の刃』を気にかけることはなかったのですが、劇場版とそれに伴った盛り上がりにつられて、劇場版を観に行ったのです。
そしたら、ハマってしまいました。
何ででしょう。やはり、アニメーションとの相性が良かったのでしょうかね。
久しぶりに帰省した妹(読まなくなった原因)とも話したのですが、原作では直ぐに死んだという印象の煉獄さんが、劇場版では先輩の柱として印象に残っていたのが大きかったということでした。
なるほど、と。
私は一連の拙い分析の中で、アニメ化によってバトル描写が上がったからアニメが跳ねたのだと分析しましたが、アニメ化のメリットがその他にもあったのだと気付きました。
それは、アニメは漫画よりも長い鑑賞時間を強制的に確保することが出来るのだという事です。
つまり、時間のコントロールの違いが功を奏したのだという事です。
確かに、私は特に漫画を読むのが早いので、5分から10分ぐらいで単行本1冊程度を読んでしまいます。煉獄さんが死ぬ戦いなどは30秒ぐらいしか見ていないのではないでしょうか。
それをアニメーションでは20~30分かけて演出するのですから、印象の残り方が時間の長さとして強くなる訳です。
こういう部分でもアニメ化の効果があったようです。
結局また分析を行ってしまったのですが、一つだけ『鬼滅の刃』について心配することがあります。
それは、日本の人々は家族を大切にすることも、弱きものを助けることも、悪に立ち向かうことも出来ていないのではないかということです。
というのは、人々が作品に心打たれるのはそれがフィクションだ(現実にはない)と暗黙的に思っているからなのだという前提?のようなものがあるからです。
ですから、ここまでの社会現象として『鬼滅の刃』がヒットしたのはある意味で現実社会にとっては恐ろしいことなのです。
今の日本社会は、『鬼滅の刃』とは反対の社会になりつつあるのかもしれません。
コロナによって家族で居ることが多くなり、その絆は本当の意味で深まったのでしょうか?
劇場版を見て「感動した」と言っているような中年おじさんが、週明けには年下の部下を心を燃やしてパワハラしてるのでないでしょうか?それを責務だと思っていないでしょうか?
飯塚幸三や安倍晋三といった邪悪な上級国民は、茶番のような追及では逃げ続けるのではないでしょうか?
それこそ、『鬼滅の刃』を読んで育った炭治郎世代が世の中を変えてくれることに期待するしかないのですが、このような優しすぎる作品がヒットしたという事に私は少し心配せざるを得ませんでした。
しかし、それはそれとして、『鬼滅の刃』は純粋に素晴らしい作品ですので、多くの人が読むことを願います。
では、さよなら。