(※ごめんなさい、富岡の羽織の柄普通に間違えました。)
2020年も終わろうとしていますが、今年のエンターテイメントを語る上で『鬼滅の刃』を外すことは出来ないでしょう。
日々更新されていく各方面の数字や記録はともかく、メディアが多様化し、人々の関心が分散・狭窄しがちなこの時代に、このような老若男女・趣味嗜好問わず、まさに「大衆」の視線を集める作品が生まれたことは歴史的快挙です。
そして、私自身も一応漫画表現を探究しようとする人間の端くれですから、このように多くの人々に受け入れられた作品を分析しない訳にはいきません。
それで、『鬼滅の刃』の何が漫画作品として優れているのか、何故ヒットしたのかを私なりに分析し、吸収したいと思います。
目次
『鬼滅の刃』シナリオ分析
始めに、漫画を構成する要素は何か……を考えます。
それがキチンと偉大な人に定義されているのか恥ずかしながら私は知りませんが、大まかに以下の要素に分解できると思います。
①シナリオ
②絵
③漫画表現
これらの要素を細かく分析していこうと思います。
今回は「シナリオ」分析です。
まずはシナリオですが、シナリオというのは更に以下の構成要素に分解出来ると考えています。
①キャラクター(誰が、何故)
②本筋・目標設定(何を)
③世界観(何時、何処で、どうやって)
さらに、漫画のシナリオにおける重要度はこの順番で高いと私は現時点で考えています。
何よりもまずキャラクターなのだと。
この考えは今年私が自身の中で得た大きな結論でもあります。
本筋も世界観も、実はキャラクターによって規定されているはずだという事です。
というのは、キャラクター達がいれば勝手に本筋が決まっていくし、見せることの出来る世界も勝手に広がっていくのだということに気付いたからです。
これは逆もまた然りで、本筋を予め決めていてもキャラクター達が相応しくなければ、何処かで不自然なご都合主義が生じてしまいますし、世界観が完璧でも、キャラクターを抜きでその説明に終始してしまえばエンターテイメント性が損なわれてしまいます。
『鬼滅の刃』でも、「鬼の親玉である無惨(絶対的な悪)を倒す」という本筋が変わらなくとも、主人公が炭治郎ではなく富岡や善逸であったならば、全く違った話になるであろうことは容易に想像できます。
また、物語の始まりが「大正時代、日本は鬼に支配されていた!」・「鬼殺隊である」みたいな世界観説明から入っていたならば、恐らくもう少し多くの人間が脱落していただろうと思います。
更に、そもそも読者は娯楽として漫画を読んでいる人間が大半である以上、純粋にキャラクター同士の掛け合いやパッションが見たいのだろうと、そういう暗黙的な優先事項があるということです。
個性あるキャラクターと適切な配置
という訳で、漫画のシナリオはキャラクターが大事なのですが、『鬼滅の刃』はやはりこのキャラクターという部分が抜群に優れていると思います。
まず、言わずもがな炭治郎はまさに主人公に相応しいキャラクターでした。
優しく・折れない前向きな明るく清い心に加え、知らずの内に伝授されていたヒノキミ神楽、更には痣持ちで戦闘能力が高いです。(そして、タフ。)
要は王道的に強い。
結局のところ、こうして主人公が何らかの血統・才能持ちになってしまうことが多いのも、主人公は主人公に相応しいだけの能力を備えていないと物語が成立しないということです。
妹の禰豆子も、鬼にされたものの悪い鬼にはならず、兄達と協力して敵に立ち向かいます。
一方でそういう強さのみならず、マスコット的な可愛さも兼ね備え、殺伐とした戦場をそれだけにしない「華」であったように思います。
主人公のヒロインとして、必要なものを兼ね備えていたと思います。
ただ、『鬼滅の刃』において、この主人公(兄妹)の設定は初めから決められていたものではなかったようです。
当初は、『鬼滅の刃』の前身である読み切りの『過狩り狩り』を踏まえ、本編の富岡に近い雰囲気の手足欠損男が主人公として考えられていたようですが、これでは大衆受けはしなかったことでしょう。(※個人的には読みたいですが)
これを炭治郎と禰豆子という形まで落とし込んだのは、編集のバランス感覚とそれを聞き入れ昇華した吾峠先生の能力だと思います。
また、主人公兄妹を支える仲間たちもバランスが取れていました。
最も近いキャラである善逸と猪之助は、普段は「ヘタレの女好き」と「負けず嫌いの野生児」で炭治郎の優等生的な性格では負いきれない役割をカバーして仲を深めていきましたし、性格は違えど戦闘では互いに助け合い強敵を撃破していきました。
先輩の「柱」達も一人一人性格や考えがハッキリと違うものの、根底では鬼を倒すという目標と産屋敷への忠誠で繋がっており、いざという時にまとまります。
「差」ひいては「個性」を効果的に演出するためには、根底に「共通」が必要なのだと学ばせて頂きました。
そして、その個性的なキャラクター達が自然と掛け合い・会話の積み重ねを行っていく。
「あのキャラクターだったらこういう風に言うだろうな」ということが簡単に想像できる。
即ちキャラクターで世界が動いていた作品なのだと思います。
素直に出るメッセージ
『鬼滅の刃』で特徴的なのは、各キャラクターやナレーションが述べる、読者に対するメッセージ性の強い言葉です。
これについては後にも触れるので置いておきますが、こういう作者の思想が乗り移った言葉はメタ的に読者を醒めさせてしまうことがあるので、作者は力を込めたい一方で難しいのです。
しかし、その点『鬼滅の刃』はそういうメッセージ性の強い言葉を掛け合いの中であっても非常に自然に引き出している印象です。
キャラクターが素直にそのメッセージを吐いているといいますか。これの代表的なシーンが劇場版の煉獄さんです。
煉獄さん自体は原作でも割とぽっと出の人物で、絡みが少ないまま死んでいったという印象なのですが、その僅かな間の登場でも違和感なくメッセージ性の強い言葉を炭治郎と読者に残していきました。
それは彼の母親がそうしてくれたからということで、初めから描写している「家族の絆」というテーマに乗せて説得力を持たせたのかなと劇場版を見た直後は考えていました。
しかし、よくよく原作を読み返してみると、あの言葉は敵であるアカザのキャラクターがそれを引き出させていたことに私は気付いたのです。
それに、煉獄さんが「炎」柱であることも欠かすことが出来なかった。いや、炎柱だからああいう展開になったのだろうか。
ともかく、そういう単純なシナリオのテクニックとかではなく、全てのキャラクターの背景が絡み合って、ああいうメッセージが素直に出ています。
ああ、キャラクターを上手く作ってそれをちゃんと立ち回らせることが出来たら、自然にメッセージを伝えることが出来るのかと学んだ次第です。
ちなみに、私は今までシナリオ・主張主導で物語を作ろうと苦心していました。(来年にはそれらを公開します)
その割には出来上がった作品はどこかクドイし、面白くないし、でもメッセージを込めたくて書いてるのになぁと悩んでいた今年だったのですが、年末に近づき、一つスッキリしました。
「全てはキャラクター主導なのだ」と。
「勧善懲悪」を駆け抜けた本筋
『鬼滅の刃』の本筋で優れていた部分は、「勧善懲悪」の王道をそのまま駆け抜けたこと、これに尽きると思います。
『鬼滅の刃』の本筋は「鬼の親玉である無惨を倒すこと」であり、これは最初から最後まで一貫していてそれがブレることはありませんでした。
短期目標として下弦から上弦へと戦う敵の強さがキチンと順に上がっていき、最終目標であるラスボス及び最終決戦へと近づいていく目標設定が絶妙だったと考えます。
このような分かりやすい本筋を設定することが出来たのはいくつか要因があると思いますが、何よりも話が長引かせなかったことが大きいのだと思います。
やはり、どうしても話が長くなると助長な部分が出てきます。特に、新キャラ投入時や新章の導入部分、修行パートはそのような傾向になりがちだと考えます。
その点、下弦リストラや上弦2体同時投入、修行から間髪入れずに無限城突入からの強ボスラッシュは、テンポという面で非常に良かったのだと思います。
あれぐらいキュッとまとめてしまった方が本筋を進むことが出来て、作品としても面白くなるのだと再認しました。
やはり、漫画の理想巻数は20巻代です。
ただ、作品を読む限りでも裏設定が多くある上に、本当はもう少し丁寧に進める予定であったであろう部分が終盤にかけて結構見られました。
(※しかし、やりたかったことは全て詰め込んでいるとも思います。)
これについては、巷では吾峠先生の事情だとか言われていますが、真偽はともかく、編集側(集英社)が納得して巻きで終わらせることを承諾したということも大きいと思います。
他を邪魔しない世界観(大正「ロマン」)
『鬼滅の刃』は時代設定として「大正時代」が設定されています。
この大正時代というのは、創作する人間にとってはまさに「ロマン」の時代だと私は思います。
というのは、この時代というのは近代化の時期であり、明治期から続く前時代の封建的な古臭い日本文化の名残がある一方で、西洋文化が日常に溶け込んできたハイカラな時期だからです。
個人の解放が進んだ時期でもあり、恋愛観なども変容していった時代のようで、これは恋柱の感性などを邪魔しないものになっています。
服や建築物に関しても、ちょっと古臭くしてもオシャレにしても「大正だから」で通るのはまさに「ロマン」に他なりません。
そういう訳で、『鬼滅の刃』は新たに世界観を構築した作品という訳ではなく、色んな設定を乗っけてもそれに耐えうるだけの時代を設定したということで、そこの選択が素晴らしかったと言えます。
(※それでも一部の歴史マニアや「批評家」はそれにケチをつけているようなのですが)
あとはそこに厨二心をくすぐる設定、特別な集団「鬼殺隊」、階級やシステムを乗せていくと一気に少年少女の心をガッチリ掴むことが出来るということです。
これに関して吾峠先生は『BLEACH』を強く意識したとおっしゃっていますが、本当にこういう所も抜かりが無いというか、考えれば考えるほど良く出来た作品だなと思います。
他を邪魔しない世界観設定というのも時には有効なのだと学びました。
「鬼」という明確な異形
関連して、「鬼」という明確な異形を敵にしたのも優れた判断だと思います。
「鬼退治」というテーマも、昔から桃太郎や節分行事を始めとして日本人にとって馴染みのあるテーマで、だから『鬼滅の刃』の世界観は大衆に受け入れられたのだろうということは巷でも言われています。
このフォーマットを使うことで「鬼」は初めから悪者で、かつ人間とは違う生物なのだということが説明を加えずともなんとなく共有されます。
また、「首を切断する」という戦闘終了条件を設定したことが大きな工夫であったと考えます。
異形である鬼は原則的に「首を切断する」ことが相手を倒す条件なのだと説明することで、読者の意識もそこに集中するので、バトル途中で終わりが見えず醒めてしまうということが無かったのも優れた部分でした。
少年漫画においては勝敗の基準が不明瞭であることが多い為、読者の中には「いつまでこのジャンケンが続くんだ?」と思ってしまう人が確かにいるはずです。
その点、「首を斬る」ことにどれだけ近づいたかということで、バトルの進捗を予想することが出来るので、読者も登場人物たちと目的を共有することが出来きます。
「バトルに明確な判定基準を設ける」ということは重要なのかもしれないなと考えた次第でした。
思いの外長くなってしまいそうなので、残りは【イラスト編】と【漫画技法編】に分けて年内には記事にしようと思います。
では、さよなら。