私が大学生時代に鬱になったきっかけと体験談・鬱の兆候とその予防

「鬱」フォント

書こうという気になったので。

今までの記事で匂わせたりはしていたのですが、私は大学生時代に気が酷く沈んでしまったために、そのほとんどを棒に振ることになってしまいました。

つまりは、いわゆる「鬱状態」に長い間なってしまった訳です。

そして、これからしばらくの期間で書いていく一連の記事は、「鬱」とそれに伴う「離人感覚」にさいなまれた経験から得た一連の精神病・メンタルヘルスに関する考察と体験談です。

しかし予め断っておきますと、私はこの手の精神病を外部に公表していくのは何の解決にもならない上、むしろ悪影響の方が多いから望ましくないと考えているのです。

それでもこうやって記事を書くのは、大学生活で鬱になりかけている人以外も、この一連の記事で何か自分を取り戻すきっかけを見つけてもらえたらと思うからです。

私が大学生時代に鬱になったきっかけと体験談

「鬱」フォント
「鬱」って未だに書けません

私は大学1年生の7月ぐらいに「鬱」になりました。

しかし、そのことが分かったのは随分と後でもありました。

こういう精神の病というのは、脳の思考自体に影響を及ぼす部分があるので、その時には懸命に前へ進んでいるつもりでも、後から冷静になって振り返ってみるとグルグルと回っていただけだったということは往々にしてあります。

結局、ここまで大学5年・社会人1年8か月・無職1年半と経って思うのは、少なくとも大学在学中の5年間は多少の波はあったとはいえ、私は鬱であったということ。

そして今になって思うのが、下手したら社会人時代も結構、鬱傾向にあったのではないのかということです。

では、「今は?」と問われると、最近はようやく自身のリズムを掴めてきた感じがするのでぼんやりと楽しいのですが、流石に1年半も完全に働いていないと金銭面や両親の圧力で動かざるを得なくて、またまた不安に駆られたりもします。

それはさておき、では何故そのように長い期間を棒に振るような鬱状態になってしまったのかというと、これが私の場合、申し訳なくなるぐらいしょうもないことなのです。

「当時入っていた部活(体育会系)に馴染むことが出来なかったから」

本当にこれだけなのです。

ちなみにイジメられていた訳ではなく、周りは大学生特有の余裕があって、むしろ最後まで私に優しかったように思います。

にも関わらず、チームプレイをやる競技でも射に構えすぎて心を開くことが出来ずに、仲のいい友達や先輩が一人も出来なかったのみならず、競技そのものが苦手な部類で一切活躍することも出来なかった。

一方で、練習は週5回・休日には応援やミーティングに駆り出され、落ち着く暇もないというか、生活自体が部活に支配されていたので、部活が上手くいかなければ当然病む訳です。

これは私の状況のみならず、広く社会人生活に通じるものがあると思います。

(※何故入部したのか・直ぐに辞めなかったのかという個人的な理由は後述します。)

結局私はある日突然、部活に行けなくなりました。

自宅の玄関前で足がピタッと止まって、動けなかったのを今でも覚えています。

部活が始まる時間を過ぎて、マネージャーやコーチなどから電話がかかってきます。ベッドの上で、鼓動が鳴りやみませんでした。

それで確か親に「泣きながら」電話して、その足で実家に戻った記憶があります。

それからしばらくは部の方からも連絡がありましたが、それらに出ることは全く出来ませんでした。

泣き帰った実家から一人暮らしの家に戻った後、確か大学は夏休み真っ只中なのに「何もする気が起きなくて」部屋に引きこもり、髭と髪は伸びっぱなしでした。

そして細かいことは忘れましたが、その後しびれを切らしたコーチと夏休み明けぐらいに直接会って話をして、少しだけ部活に復帰したはずです。

しかし、復帰したものの既に心の糸がぷつんと切れてしまっていて、また部活に行くことができなくなって結局退部しました。

だから、籍的には10月ぐらいまで残っていたことになります。

最後には同期の部員全員の前で退部報告を行いましたが、その時には心が死んでいた気がします。思っていたよりも部の人達はあっさりしていましたが、私の動悸はずっと治まりませんでした。

以降、私は大学内で同じ部活だった同期や先輩を見ると、身体が無意識に恐怖して逃げる癖がついてしまい、食堂などの部員が居そうな場所に行けなくなりました。

だから例えば、食堂は4年間で1度も使いませんでした。部員が居ることが多いので、迂闊に行けないのです。

ちなみに留年した5年目には、流石に当時の部員の殆どは学校を去って行ったので、私も学食に行けるようになりました。

ただ、卒業間際の2月です。

「こんなに美味しいものがこんなに安く食べられたのか、もっと早くに使いたかった」と泣きそうになったのを覚えています。

そうやって大学生活の出鼻をくじかれた私は、新しい人との関わりやチャレンジに極端に怯えるようになってしまいました。

自分のやりたいことが見えずに悩み、ウサギ小屋のような部屋のベッドで、一日中酒を飲んでは寝る生活が続いた末に「離人感覚」に悩まされるようにまでなりました。

そのような先の見えない暗闇で、更に気分は沈んでいきました。

そのため退部後も別サークルや部活に入ることもなく、アルバイトも殆どすることもなく、彼女なども出来るはずがなく、鬱々と5年間の大学生活を棒に振ってしまったという訳です。

(ノーサークル・ノーアルバイト・ノーフレンドの「三重苦」)

鬱の兆候:感情失禁と無気力

以上が大学で鬱になった簡潔な流れですが、思い返してみると鬱の兆候というのがいくつかありました。

それが「感情失禁」と「無気力」です。

「感情失禁」というのは、これは厳密に言うと私の場合は「悲哀的」という程度に留まり、そうとは言わないようなのですが、気持ちに反して涙がポロポロとこぼれてきてしまうのです。

前述のエピソードに少し出ていますが、私が鬱になって部活から逃げる直前というのは、何かにつけ泣いてしまうということが多々ありました。

部活でも全体で練習や試合の振り返りをする際、何故か感情的になってしまって泣きながら意見を言うということが殆どになってしまい、今冷静に考えてみると、本当にヤバい奴だったよなぁと思います。

また、私は実に「無気力」になっていました。

髭や髪が伸びっぱなしだったのもそうですが、酒とインスタントラーメンを買い溜めして日付感覚がなくなるぐらい本当に外に出ませんでした。というか、出れませんでした。

これは部活を辞めた後も、大学2年生の後期ぐらいまで1年ぐらいしばらく続きました。

しかし、これはどうも既に鬱になっていたから「無気力」になっていたようです。

それが意味する所は、鬱というのは「もしかして鬱?」と思うような状態になっている時点で既に鬱になっているのではないのかということです。

思えば、部活に行っていた頃も部活に行く以外は途中から授業は語学以外ほとんど出ていなかった気がします。

身体の疲れもありましたが、部活に行って、帰って寝るだけでした。

ですので本当は、「鬱かな?」と思う段階より前、「ここはストレスフルで鬱になるかも」の段階で逃げたり、問題に対処すべきなのだと私は思います。

本当に心が健康な人は「私は鬱かも」などとは思わないでしょう?ということです。

目の前の出来事に全身全霊で取り組み、未来に漠然と希望を持って、自分や現実を深くは考えないはずです。

逆に言えば、その時の喜怒哀楽を噛みしめられる状況は鬱になりにくいとも言えます。

だからこそ、「好きなこと」がない人間は鬱になりやすい傾向にあると思います。

ただ同時に、「自分が鬱かも」と思えている場合はまだギリギリ大丈夫だとも思います。

私の経験上、鬱になってしまうとそのような思考すら吹き飛んで、知らずの内に深い暗闇に身を置き、彷徨うことになります。

鬱が良くなってようやく、自分がそれまで暗闇にいたことに気付きます。

しかし、それは手探りだけで難しい迷路を抜けるようなものです。運と根気、攻略法が必要になってきます。

(※私がたまたま抜け出した経験談も今後紹介しますが)

だから「自分が鬱だ」と思えている内に戻って欲しい。

でなければ、守ろうとしているもの以上に多く人生を犠牲にすることになります。

そう思って、私はこういう場に情報を置いているのです。

鬱という隣人と私・特性と予防

鬱になった上で私が思うのは、鬱というのはちょっとしたきっかけで、誰でもなり得る病なのだということです。

これは脳という人類共通の臓器の病気(エラー?)なのだから当然と言えば当然ですが、どこか他人事で理解が進んでいないのも現状です。

いわば、鬱というのは私達人類が高い知能と引き換えに棲み分けを選んだ隣人です。

故にその特性は誰もが十分に把握しておく必要があります。それは予防に繋がります。

かく言う私も、高校生時代まではもちろん辛いこともあったものの、割と順風満帆に人生を送っていた方の人間でした。

そんな私が大学生になった途端に鬱を患ったというのは、私個人の事情を含めて以下の3つの理由があったように思います。

①初めての一人暮らしであったこと

②それまでに大きな失敗や挫折を味わっていなかったこと

③大学以降は主体性を求められる場所であること

①については私個人の事情が大きいのですが、家族仲がそれほど悪くない家庭で生まれ育ち、加えて専業主婦の母が身の回りの世話をしてくれていた環境を離れて、

いきなり一人で生活の全てのことをしなければならないという状況は、それだけでも私にとって心身共に負担の大きい状況でした。

気軽に頼ることの出来る人間が周りにおらず、どれだけ疲れていても朝は一人で起きて、家事も自分が行わなければいけません。

部活抜きにして、そのような環境に慣れる時間というのは私にとっては必要だったのでしょうが、そういう時間がなく忙しい大学生活になってしまったのです。

急激な環境の変化に、心身ともについていくことが出来ませんでした。

そういう点で、環境を変えることはピンチでありチャンスでもあります。

あなたと鬱という隣人

また②について、私がこれまでに明確な挫折や失敗を経験してこなかったということもあったと思います。

詳しいことは省きますが、私も高校生までは運動・勉強・芸術・人間関係etc……全てそれなりに上手くいっていたのです。

それがふとした間違いで自分に合わない部活に入ってしまい、変なプライドから自分の心が壊れるまで、そこにしがみついてしまったのです。

当時の私は、「この場所で頑張ることが出来なければ、他でも頑張ることは出来ない」・「自分が辞めることは誰にも許されない」などと思って、その部活以外には選択肢が無いように思い込んでいました。

しかし社会でもそうですが、ある場所でダメだからといって、他の場所でもダメだということはないのです。

そもそも大抵の場合、「ダメだ」と言えるほど自分の居場所を探していません。

これから言えるのは、意外と順風満帆な人生を送ってきた人間ほど、ふとした拍子で鬱になる危険性があり、そこからの転落も激しいということです。

そしてこれは、自分のみの問題ではありません。

例えば、自分のパートナーとなった相手がその時点では完全無欠なエリートのように見えても、たった一度の失敗で鬱になって周りを巻き込みながら転落していくこともあり得るということです。

自分の子供の場合でもそうです。

私の両親は私を見て驚いているところはあるのではないでしょうか。それなりの大学まで行かせて、ようやく子育てで一息ついた所に私が鬱になって戻ってきたのですから。

だからこそ、小さい頃から失敗とそのリカバリーの仕方に慣れておくのが良いのでしょうが、それこそ上手くいっている環境ではその経験が積みにくいというのがジレンマです。

ともかく、鬱というのは常にあなたの横に居るのであって不意打ちのように闇に突き落とされることがあるということです。

それと無縁なのはよほど図太い人間なのでしょうが、そういう人間は往々にして周りの人間に害を与えているはずですので、周りの人間が病むことになると思います。

そういう点でも、病みそうになったらサッサと自分から離れることが肝心です。

少なくとも私は、小さなプライドにしがみついて、余計に多くのものを失うことになりました。

大学生活で病む人間と「自主性」

「自主性」というのは、「自分が主体的に進みたい方向性」です。

大学生活で自主性が無い場合、アイデンティティの喪失に繋がり、高確率で病みます。

私もそのパターンでした。

これは前に私の就活の話でも述べたことですが、私は基本的に「逆張り人間」で、他人の意見に逆張りすることで自身のアイデンティティを築いていた人間でした。

こういうやり方は、決められた教室やスケジュール・メンバーで強制的に進められていく高校までは周りも付き合わざるを得ないので、一定の地位を確保できるのですが、自主性が求められる大学(社会)以降は全く通用しなくなります。

私は結局そのことが就活するまで分からなかったので、就活でもまたまた苦労することになったのですが、この「自主性のなさ」というものが鬱に繋がっていたようにも思います。

そんな私の大学入学当初を振り返ってみると、周りの大学生のようにとりあえず自分の気になる新歓に沢山参加して、気の合いそうな人間を探すということはしませんでした。

確か、入学最初のオリエンテーションすらわざとサボった記憶があります。(そして単位を落とした。)

しかし一方で、高校での部活の先輩に誘われた新歓には唯一何の躊躇もなく参加していて、それが私の入った部活だった訳です。

すなわち私に自主性がなかったため、先輩に誘われるがまま本当は自分に合っていない部活に入ってしまったのです。

それで結果的に私は鬱になってしまった訳です。

大学生活というのは「人生の夏休み」とか言われるように、確かに時間があって「自由な」期間です。

多くの人達にとっては人生で一番楽しい期間であり、大学に行ったことのない人達が学歴コンプレックスを抱くことが多いのも、そういう期間がないからというのもあると思います。

それでも、そういう楽しい期間に精神を病んでしまう人が一定数いるというのは、その自由さ故に自身の進む方向性を見失ってしまい空中分解してしまうからなのだと思います。

人間というのは、贅沢ですね。

ともかく、大学生活で病んでいる人は、その「自主性」及び自分を取り戻すことがその後のことを考えても肝心です。

しかし、私自身の経験上、その言葉や具体的なアドバイスは素直に届かないだろうということは分かっています。

それで、私は次以降の記事で「鬱とは何なのか」という考察から、そこから脱する違うアプローチを紹介しようと思っています。

では、さよなら。

(最後の文で思い出しましたが、一時期『うつヌケ』とかいう本が話題になった時がありましたが、あの手の本・あの手の言葉というものが鬱の当人には届かないんだよなぁって思いました。)

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