プペってきました(笑)
今、何かと悪い意味で話題の「プペ」ですが、そういう作品と関係ない面が一人歩きしているからこそ、創作を愛する人間の一人としてキチンとこの作品を正面から批評・分析しておく必要があると思い鑑賞してきました。
従って、現実と切り離した純粋な作品としての批評を以下から進めていく訳ですが、切り離したはずの歪な現実が作品に立ち戻ってくるという点で、私は酷く感動せざるを得ませんでした。
やはり、創作というものは作り手の内面が現れるのだと、創作に対する希望を見出した次第であります。
(※補足ですが、この記事を書くにあたり、こういうレビュー記事をいくつかと、「映画.com」上のレビューは全て読みました。その上で自画自賛ですが、私のレビューが一番作品と向かい合っている自信があります。)
目次
『えんとつ町のプペル』観に行ってきた
皆さん、プペりましたか?(笑)
これは冗談ではなく、本作は主に教祖(西野)と信者周りの話題が一人歩きしていて、本当にフラットに作品として批評・分析している感想が少なすぎるのです。
偏見抜きに映画作品として批評した人がどれだけいるのでしょうか。
やはり、『えんとつ町のプペル』を真に批評するためには、最低限鑑賞しなければなりません。

ただ、私もそれだけに金を払うのが癪だったので、イオンシネマのワンデーパスポートを使って『鬼滅』・『ポケモン』の抱き合わせで鑑賞しました。
周りもそういった人間が多かったのか、思ったよりも多くの人がプペっていてビックリしました。
特に高校生ぐらいの若い子が多く、そりゃこういう層からしてみれば「西野(教祖)が~」とかは耳にしないし気にかけないよなと思いました。
ネット上では悪評か不自然な持ち上げばかり目につきますが、こういう真にフラットな層が興行収入を支えているようです。
それはさておき。
結論から申しますと、『えんとつ町のプペル』を鑑賞した感想としては、「映画作品・アニメ作品としては酷い駄作である」と評価せざるを得ません。
私はスケジュール的に『鬼滅』・『ポケモン』と良質なアニメ作品を観た後に観ることになってしまい、特に後味サイアクでした。おかげで鑑賞後に最近は控えていた酒をかなり飲んでしまいました。
劣悪な作品を最後まで真剣に観るのは、滅茶苦茶ストレス溜まります。
一方で、公式サイトで無料公開されていた原作絵本についてはまた違った評価が出来たため驚いた次第です。
それで、実は西野が教祖として本格的に暴走し始めた(本性を隠さなくなった)のはこの絵本と映画の間ではないのかと作品から推測する訳です。
以下からは創作のテクニカルな面での分析・批評を進めていきます。シナリオ(5w1h)・映像に関して取り扱いますが、特にシナリオに関してはツッコミどころが多すぎるので、致命的な欠陥だと思える部分を厳選しました。
また、【ネタバレあり】と言いますか、鑑賞を前提とした説明を行います。
エンタメ作品として致命的なシナリオ上の欠陥
ここでの「エンタメ作品」とは「大衆向け娯楽作品」と定義します。
その上で『プペル』にはエンタメ作品として致命的な欠陥がシナリオ上にあると考えます。
「鑑賞者が主人公達の言動を妥当とするだけの説得力がある理由を作中だけで説明出来ていない」
本作のシナリオ上の欠陥はこれに尽きると思います。
シナリオを構成する「5w1h」が全て不十分です。
すなわち、主人公のルビッチは「何故か」「星を見る」という目標があるのですが、それを「何故か」周りに否定されてしまう。
それでも「何故か」周りに支えられながら、「何故か」その目標を達成して、「何故か」世界が変わってしまうのですが、こういった全ての「何故か」について作中だけで十分な説得力を持たせることが出来なかった作品だと評価出来ます。
そして、作中だけで十分な説得力を持たせることが出来なかった場合、その補完は作外の鑑賞者個々の価値観に基づいて行われる訳ですが、そうすると作者と価値観が離れていればいるほど作品が不可解で不愉快なものになります。
これは「大衆向け娯楽作品」としては相応しくありません。
作者と価値観を多く共有している人間のみが楽しむことが出来る、コアなカルト映画の類としては成立するかもしれませんが、作者(西野)の目標である「ディズニーを超える」ことはこの方向性では無理でしょう。
実際、この批評を書くにあたって様々なレビューを読みましたが、比較的肯定的な感想を述べつつも節々に疑問点があって、モヤモヤと心の煙が晴れていない人が結構いました。
それは上記の理由に起因するものでしょう。
では、どういう部分・理由で作品の説得力が不足することになったのかを以下で分析していきます。
「何故」主人公は「星」を見てはいけないのか
本作のテーマ(?)にも繋がる重要な部分ですが、「何故」主人公は「星を見る」という夢を否定されなければならないのでしょうか。
私が本作を鑑賞した限りでは、作中で説明された理由は以下だと理解しています。
・外の世界があると知られるのが不都合だから
以上。
これ以上の明示的・客観的な説明は作中でなされていません。
その上、その理由自体を裏付ける「外の世界とえんとつ町が接触を断った理由・その状態を維持する(出来る)理由」にも十分な説明がされていませんでした。
基本的に本作は疑問が疑問を呼んで、最後は曖昧なまま丸投げです。
作中で説明されるように、ある王が「腐る貨幣」を発明したとして、それが百歩譲って貨幣として流通するだけの信用を確保したとして、更に一万歩譲ってそのことが世界を揺るがす脅威だと認識されたとしても、普通は地の果てまで追われて攻め落とされるだけで、「えんとつ町」は生まれません。
正攻法でいくと、国を外界から隠し守るだけの軍事力・技術力・地形などといった観点からさらに説得力を与えていくのが自然ですが、それらについての言及はありませんでした。
従って、「腐る貨幣」の一連の下りも作品の説得力という観点からは全く意味のない話でした。
そして私が強調したいのは、これは別に私が揚げ足を取っているのではなく、作品の造りがそうさせてしまっているということです。
変に理屈で説明しようとするから、鑑賞者もそれに注目してしまうのです。
折角ファンタジーの世界観・良い映像があるのですから「不思議な力」や「不思議な場所」という風に世界観そのものに説得を投げるべきだったのです。
作品冒頭では空から心臓が降ってきて、何故かそれにゴミがまとわりついてプペルが誕生したのですから、その世界観を使わないのはもったいないでしょう。
変に謎の賢さアピールをしようとして、ファンタジーな世界観を根底から破壊してしまった感じがあります。これは作者の選択ミスであり、力量の問題です。
特にこの部分の理由は本作のテーマ(?)に直結する核心的な部分なのですから、説得力をもたせるために取捨選択を慎重にせねばならなかったと思います。
「星を見ること」=「夢を見ること」にしたらダメ
加えて、作中の説明を聞く限り、私の理解では「夢見ること」自体はこの世界では禁じられていないのです。
前述のように、外界と繋がる可能性自体がこの世界にとっては脅威なのであって、そういう個人の意志自体は、実は全く否定されていないのです。
「星見ること」や「海に出ること」といった外界との接触に繋がる行為が禁じられているだけなのです。
それは、本作の世界では(おそらく)職業選択の自由があり、完全な私有財産制であり、基本的に個人の権利が尊重された資本主義社会が想定されていることからも裏付けられています。
もし、「夢見ること」自体が禁止されているならば、もっと管理的で共産主義・社会主義的な世界観が設定されてなければ不自然です。
「異端審問官」という社会秩序(?)を維持するために取締りを行う組織は名目上存在してるのですが、どういう基準で取締りを行っているか不明ですし、夜な夜な地下を掘り続けている男はおろか、近くにいるルビッチの位置すら把握できない無能集団です。
闇医者すら捕まえることをしません。この組織には信条がないのだと思います。
以上から「夢見ること」自体はこの世界では禁じられておらず、作中で十分な説得力を与えることも出来ていないと私は考えます。
ですので、本作において「星を見る」というルビッチの個人的な夢が禁じられている世界を誰もが「夢見てはいけない」世界とするのには大きな論理の飛躍があるのです。
「夢を見ること」=「星を見ること」だと同一視した暗黙のすり替えがあります。
作中では更に「上を見る」という行為を「星を見る」・「夢を見る」の結節点にすることで全てが同一であるかのように話を進めるので、この論理のすり替えに騙されてしまう鑑賞者もいるでしょう。
個人の夢が、あたかも全員共通の夢かのように本作では語られます。
すなわち、ルビッチの価値観こそが絶対であり、皆もその価値観を共有している・共有すべきだという独善的な考えが鑑賞者に刷り込まれます。
個々の例をあたかも普遍的な法則のように語る詐欺師の手法です。
創作における「説得力」とはそのようなものではないのです。
鑑賞者を見下して、完全に舐めています。エンターテイメントとは鑑賞者との対等なコミュニケーションのはずです。
こういう筋が通らないことをしているので、本作を鑑賞していると非常に腹が立ってきます。
単純な作者の力量不足だと思いたいのですが、それにしては手慣れ過ぎている。
作者を知らずして、作品だけから作者の内面が見え始めるのです。
吐き気を催す邪悪、ルビッチ

プペった人は分かると思いますが、コイツは「プペル」ではありません(笑)
「ルビッチ」という「自己中心的でメリット厨のテロリスト」です。
そして、この呼称が冗談ではないのが、本作のおぞましいところです。
本作が説得力を欠いてしまった原因の一つに、作品を担う「主人公」のキャラクター設定を間違えたことがあると考えます。
端的に、このキャラクターは主人公として一般的な感覚の鑑賞者が感情移入するだけの器が無いのです。
例えば、コイツ(ルビッチ)の言動の中で私が違和感を覚えたものをいくつか挙げてみます。
・物語序盤、ゴミ収集車に回収されたプペルを助けるも、プペルがゴミ人形だと分かると「助けて損した」という趣旨の発言
→メリットありきの行動。臭いゴミ人形だと分かっていれば助けなかったのか?
・プペルと友達になりたい理由
→自分に友達がおらず一人なのは体裁が悪いから。相手を一切見ていない。
・プペルの身体を毎日洗う理由
→自分の横で臭ったり、臭いが自分に移るのが嫌だから。そして「臭い」いじりを執拗に繰り返す。体臭いじりを仲良さの表現としてみても、それが許されるほどの間柄になっているとも思えない。恩を売ってやった体にして暗に見返りを期待している。
・プペルを匿い仕事を与えたダンが異端審問官に殺されかけ、自分にその責任の矛先が向きそうになるとプペルが悪いとキレる
→そもそも、お前が勝手に職場に連れて来たのに?
・高所恐怖症だが、母の薬代を稼ぐために金払いが良いえんとつ掃除の仕事を選ぶ
→高所恐怖症は気合で何とかなるものではない。また、理由はともあれコイツは「金」が大きなインセンティブとなっている。多分、母が死んでもコイツは何食わぬ顔でこの仕事を続けると思う。
以上はほんの一部ですが、このような主人公の悪質な言動があまりにも自然に行われるので、主人公に非があるのではないかと思う鑑賞者も少なからず存在すると考えます。
「お前が馬鹿にされて、友達もいないのは純粋にお前の酷い性格のせいじゃない?」と。
そしてこれの何が作品として問題なのかというと、主人公にも非があるかもしれないと鑑賞者に思われてしまうと、「正しい自分を不当に叩く間違った周りが悪い」という主人公及び作品の主張に正当性が失われてしまうからです。
主人公の言動に正当性が一旦失われてしまうと、それは敵役の言動と何も変わらないものとなってしまいます。
この状態で世界が主人公の方へ傾いた場合、主人公はテロリストと何も変わらないと言えるでしょう。
物語の最後には主人公に感化された社会が何故か煙を焚くのを止めて、空が晴れてハッピーエンド風な感じで終わりますが、そこにはえんとつ掃除で生計を立てている人間などの既存社会での生活が全く想定されていません。
主人公の方には大義名分すら無いのですから、百歩譲ってせめてそれをするならば、新しい世界でも楽しく暮らす人々の描写ぐらいはキチンと入れて欲しかったものです。
またそれに関連して、そもそもコイツには物語を通して能力的な成長はおろか、心的な成長が一切見られません。
何故ならばコイツは本質的に努力が嫌いなのです。正確には、現状維持を努力だと考えている節があり、日常を自分から一歩ずつでも良くしていくという考えが無いのです。
それは「自分ではなく世界が悪い」という考え(作品のメッセージ)が根底にあるからですが、そういう点からもコイツは自分の手を極力汚さずに世界をひっくり返して賞賛を受けたいと願っているテロリストなのです。
しかし一方で、「父には先立たれ、病気で車椅子の母を支える子供」という外側だけは可哀想な境遇を与えられているため、一層質が悪いです。
「可哀想な子供だから」で本来済む話では無いのにも関わらず、被害者面をして正当性を確保しようとするコイツは、上記の言動と併せて自己愛性パーソナリティ障害の疑いが高いです。
お前は被害者側じゃなくて、加害者側だろって話です。
ですので、もし主人公に作者(西野)が自分を重ねているならば、作者もコイツ同様に人格障害の疑いが高いと思われます。
子供の面を被ったおぞましい承認欲求モンスター、吐き気を催す邪悪が「ルビッチ」であり、コイツには主人公の資格は無かったと評価できるでしょう。
ポテンシャルはあったが狭い印象の世界
以上までが主に「シナリオ」に関する大体の評価であり、お世辞にも褒められたものではありません。(※細かいツッコミどころは多すぎるので省きました)
しかし、ここからは「映像」の話が入ってきて、評価出来る部分が増えてきます。
それが「世界観」の部分なのですが、監督が悪いのか脚本が悪いのか、『プペル』の世界は広がりがあるはずなのに、極々狭い印象を与えてしまったというのが率直な感想です。
ひいては、エンタメ作品としては不親切です。
基本的にシーンが点から点へと移動する構成になっていたので、町の全体像(物語の舞台)が見えてこなかったということが全体的に言えます。
例えば、「海」がこの世界に存在するということは物語上で直接「海」に関連する話が出てくるまで良く分かりませんでした。
「鉱山」も一体どういう規模感で存在しているのかも分かりませんでした。
職場がどの方角なのか、えんとつが何本ぐらいあるのか、主人公が町のどの辺りに住んでいるのかということすら作中の情報では分かりませんでした。
それはキャラクターから生活感が感じられないという印象に繋がり、キャラクターの舞台装置感を強め、説教臭さを強めてしまったと考えます。
この問題を解決するためには、物語の序盤に町全体、少なくとも出てくる場所同士の繋がりを見せるシーンがあったら良かったと考えます。
例えば、プペルの核である心臓がゴミ貯めに落ちる前に町の至る場所を転がってからたどり着くという風に原作からマイナーチェンジしても良かったと思います。
そういう観点で特に私が惜しいなと思ったのは、初めて町中にシーンが切り替わって一発目のダンスシーンでした。
ハッキリ言って、あのシーンは「無」です。
長々と尺を取った割に鑑賞者に伝わる情報は「変な奴らが町中で踊っている」ということだけで、これから始まる物語に対する期待感が何一つ演出出来ていませんでした。
私はダンスシーンが終わって、お菓子が映ってようやく「ハロウィン」だという情報が分かりましたし(仮装だけでは不親切)、写っているのは渋谷のスクランブル交差点みたいな場所だけなので、それで「えんとつ町」をイメージすることはできませんでした。
例えるならば、渋谷のスクランブル交差点だけを映し出されて、東京23区を全てイメージ出来る人間はいないと思います。
折角「ハロウィン」の夜なのですから、間に子供たちが町中練り歩いてお菓子を貰うシーンを入れるだけでも親切になるのにと思いました。(あれだけダンスさせる余力があるなら可能だったでしょう。)
とにかく、ダンスシーンは意図が良く分からず、個人的にはサイアクな第一印象だったと思います。何となく音量と動きで盛り上げようとする雰囲気だけのシーンでした。
こういった構成の不親切さによって、ポテンシャルはあったのにも関わらず、世界がとても狭い印象を与えたのはもったいないと評価出来ます。
『プペル』で評価できる点
『プペル』で評価できる点は主として「映像」、ビジュアル面だったと思います。
制作は『鉄コン筋クリート』のstudio4℃で、よくもまあ芸人主導でこういうアニメスタジオを引っ張り出してきたなぁと思っていたのですが、吉本という企業が大きかったのだと今では思っています。
それはさておき、『プペル』の映像で特筆すべきはCGアニメーションでしょう。
オブジェクトがゴチャゴチャと配置された世界観を表現するのに、今の時代全てを手書きで行うのは難しいので必然的にCGの手法を用いるわけですが、原作絵本の世界をよくCGまで落とし込んだなという次第です。
特に、個人的にはキャラクターデザインの仕事が大きかったと思います。原作絵本からCGに落とし込むまでにはアニメ表現に適したデザインにまず下ろす必要があります。
例えば「プペル」のデザインについてはアニメ表現に耐えうるだけの動きをさせるために、表情や動きで演技できるようにデザインを変えつつも、ゴミ感や原作の雰囲気を損なわないように苦心した感じがありました。
ただ、「ルビッチ」に関しては本編の言動が相まって、純粋な子供というよりかはサイコなクソガキ感が出てしまったのが否めないのは惜しかったです。
デザインの段階で逆にクソガキ感を押し出しておけば、シナリオでの酷い性格が緩和されて見えていたかもしれません。
(※2021/02/16追記)
studio4℃の『プペル』での仕事ぶりについて、インタビュー記事をいくつか読みました。
私のCGアニメーションに関する知識が浅く、上記の感想が薄っぺらいなと恥ずかしくなりました。
特に「ブロッキング」や「影マスクのレンダリング」の話は考えが及んでいませんでした。
リンク先の記事は非常に面白かったです。
(追記終わり)
それと、個人的には母親を含めた女性キャラのデザインに妙に色気があったなという感想です。
とはいえ、例えば「ドロシー」に関しては前髪をかき上げて唇をプリッとさせて、エロほくろをつけて、鎖骨を見せるという極々ベタな手法が使われているだけなのですが……

(↑ゴーグルの構造を間違えた)
単純に私がこういうデザインに弱い(笑)
しかし、これも脚本上イマイチ存在意義があったかは不明なキャラクターでしたね。
それにしても、あれだけの量のCGを作るのには結構な金がかかったと予測します。
しかも、細かいオブジェクトを全てにゴチャゴチャ付けているので、質の面からも相当な金がかかるはずです。
資金繰りをどうしていたのかは知りませんが、吉本という企業がバックについていたのは教祖が思うよりも大きかったと考えますが、どうでしょう。
ちょっと教祖を心配してあげます。
まさか「ディズニーを超える」と言って信者を集めている人が『プペル』一作で終わる訳ないでしょう?
今後の作品はどうするのでしょうか。信者達は馴れ合っていないでアニメやCGの勉強を始めた方が良いのではないでしょうか。
特に映画作品は莫大なリソースが必要ですから。
大企業の信用というのは個人への信用なんかより遙かに大きいです。
『プペル』の映像を支えた影のMVPは吉本だったと思います。
『プペル』の原作絵本
絵本という表現媒体について、私はそこまで分析を行っていないので詳しくないのですが、実際に公式サイトで無料公開されていた『プペル』原作絵本を読んだ感想は以下でした。
「思っていたより悪くない」
映画が良くなかったということがあるかもしれませんが、原作絵本はそこまで悪いものではなかったという感想です。
意外でした。
余り長々とまた絵本の考察を乗せるのは冗長ですので、どこが作品として良かったかを挙げておきます。
・鑑賞者の想像力に委ねるところが大きく、シーンが連続しない「絵本」という表現媒体がシナリオの粗を上手く隠した
・ルビッチの醜悪な言動が尺の都合上そこまで目立たなかった
・作品及び主題の焦点が「プペルとルビッチの絆」にちゃんと合っていた
・絵も相まって、ファンタジーな世界観が最後まで崩れなかった
正確には絵本では作品としての欠点が目立ちにくかったというだけなのですが、
私が述べてきたように、それは絵本作品としての説得力がそれなりに担保されていたということで、この原作絵本には一定の評価が出来ると思います。
ですので、絵本は好きだけれども映画はイマイチだったという人も結構いるのではないでしょうか。
まとめ(作品から考察できること)
総合して、『えんとつ町のプペル』という映画作品については以下の評価が出来ると考えます。
「アニメ作品として映像は比較的高水準にあるものの、それを活かしきれないシナリオ及び全体構成であり、エンタメ作品としては酷い駄作」
一方で、映画鑑賞後に無料公開されていた絵本を読みましたが、私はまた違った印象を抱きました。
原作絵本でも確かに粗や悪い片鱗があったものの、絵本という表現媒体の特性と相まってそこまで悪いものには見えませんでした。
このことから言えるのは、『プペル』という作品は絵本作品としてはそれなりの成功を収めたものの、アニメ映画化に失敗した作品だということです。
そして、その失敗の原因は主にシナリオによるところが大きいのであって、シンプルに脚本を担当した教祖(西野)の力量不足です。
ここからは私の妄想ですが、
おそらく西野は絵本を映画化しようとしたときに、絵本では何とか誤魔化せていた自身の実力・才能・努力不足にぶち当たらざるを得なかったのではないでしょうか。
それは至極当然のことで、何なら絵本が奇跡であったのであって、創作に対するとびぬけた才能も地道に重ねた努力もない人間が良い作品を作れる訳が無いのです。
そして、不足した創作の引き出しを補うべく自分自身をなんとか切り貼りして『プペル』の脚本を作り上げたのでしょう。
(※ただ、作り上げたことは評価します。)
しかし、仮に西野が自分からひねり出したルビッチと同じような性格をしているならば、その現実は認めませんし、かといって真剣にエンタメ作品の研究をコツコツとする気もないはずです。
手っ取り早く、金と賞賛が欲しい。まだ足りない。周りが悪い。俺の踏み台になれ。
その結果、「教祖化」が加速して最近あちこちで悪い話を聞くようになってきたのではないでしょうか。
『プペル』ではルビッチは変わることはありませんでした。おそらく西野も変わらないでしょう。
ルビッチは社会のルールとして禁じられていることを追い求め、それを「夢」だと話をすり替え被害者面することで味方を作り出し、詭弁で自らは手を汚すことなしに社会を転覆させることに成功しました。
一方、西野も社会を転覆させない限り、いつか法律に抵触して捕まる状況になるのではないでしょうか。
もし、西野が逮捕されたら『プペル』はおろかディズニーを超える体を張ったエンタメ作品が完成します。
しかし、オウム真理教のように本当に社会の転覆を狙うようなことがあれば笑えません。
個人的には西野が「教祖」ではなく「芸人」として原点回帰してくれることに期待せざるを得ません。
信じぬきます。
では、さよなら。