中学から社会人まで10年以上付き合った友達をなくした理由とその瞬間の体験談

頭の中の黒ウサギ

嫌な事っていうのは、何故か自分が弱っている時に畳みかけるように押し寄せてくるものです。不思議です。

そして私も先日の夜、一番応援していた自転車選手の「ミケル・ランダ」がレースを落車リタイアして落ち込んで寝れなかった所に、友人だと思っていた人間から珍しくきていたLINEを読んで、遂に私には「友達」もいなくなったのだということに気付いてしまいました。

26歳・無職。それ以上のステータスは持っていません。先は全く見えません。

一方で貯めていたお金の底は見え始め、最近は不安に押しつぶされそうになっています。

久しぶりにこういうどん底の気分になりました。人生、中々上手くいかないものですね。

いつか私達は対等でなくなり友人はいなくなる

「理由をつけて断られるのが嫌い」

そういうLINEが中学以来、10年以上付き合いのある友人から返ってきた。

しかし、私がそういう理由をふと付けたくなったのは、私自身に自分に対する負い目があったからなのだ。

だから、そう言われるなら、もう友人関係は終わりなんだなと思った。

事の発端は、ある友人が私を珍しく飲みに誘ってくれたのです。

その友人というのは中学以来10年以上の付き合いがある人間で、人付き合いが苦手な私の数少ない「友達」でした。

コロナ禍のこんな自粛ムードの中でも、いやだからこそなのかもしれないけど、こんな私を誘ってくれるというのは喜ばしいことです。

けれども、私は本当は飲みに行きたくなかったのです。

それはもちろん、コロナ変異種が流行っている真っ只中に、無職引きこもりである唯一の利点まで捨てて外に出たくなかったというのはあります。

しかし、それ以上に私が嫌だったのは無職になって以来、自分が世界に取り残されていることでした。

私が無職となって1年半、特に何も目立った成果を挙げることが出来ていないのです。だから、酒の場で話せることもない。感覚もドンドン世間とずれている。

一方で彼はその間にも社会人として働いて人生を築き上げているということに実は引け目を感じていました。

それでついつい、「コロナ関係なしに7月になるまで人と会わないと決めている」と中途半端な理由をつけて断ってしまったのです。

けれども、それが彼の癪に障ったのでしょう。

だから「理由をつけて断られるのが嫌い。次からするな」とハッキリと返ってきたのです。

かく言う私も、彼の立場になってそんな断られ方したら気を悪くしたと思うのです。

だから本当は、直前までその理由を送信するかどうか迷っていたのです。

けれども、どうしても私はその時、そのカッコ悪い理由を送りたくなってしまったのです。

本当は、私はこういうつもりで送ったのです。

「コロナを言い訳にするようなヘタレた感性にはなっていない、それは俺達が学生の頃から変わっていないから安心しろ。そしてあと2か月もすれば俺も職を探さざるを得なくなっているはずだから、また対等に会えるだろ?」

けれども私がそうやって赤裸々に文面を書けなかったのは、自分が無職であることに負い目を感じていたからなのです。

そして、それを汲み取ってあわよくば友人としてフォローして欲しいという女々しい考えがあって、私は後付けの理由を送信してしまったのです。

しかし、そんな私の気持ち悪い考えに対して、友人の返信は「理由をつけて断られるのが嫌い」というものでした。

要は、「そういう変な負い目を感じているお前は嫌い」という事なのですが、私はあることに気付いてしまったのです。

「ああ、既に俺達は対等じゃないのだな」と。

もちろん、それは私が勝手に友人に対して負い目を感じてしまっているだけという理由に違いなく、初めの前提から導かれる当然の帰結なのですが。

それでもなんだか、私はとても悲しくなってしまったのです。

別に気の利いた返信を期待した訳ではないけれども、そりゃないよと。

そもそも、頭数のためにだけに呼ぶなよ。勝手にそいつらと飯食べておけばいいじゃない。別に呼ぶ理由が「私」で無いなら人と会う気はあまり無いんだよ。

結局、私が学生時代にその友人と「友達」でいられたのは学生という立場が同じだったからというだけなのであって、社会に出て立場が異なってしまえば直ちに友情なんてものは崩れ去ってしまうのかと。

そして、私はその程度しか人間を信じていないし、信じられていなかったのか、と。

恐らく、立場が逆だったら私も同じぐらいイラついてたでしょうね。

こういう「社会人になって友人がいなくなった・減った」という話は私に限らず、結構あるようです。

それは物理的な時間が減っていくということもありますが、社会に出るとどうしても社会的立場が変わってくるというのもあるのだと思いました。

有名大企業と中小企業、ブラック企業とホワイト企業、現場仕事とデスクワーク、役職持ちと平社員……こうした差というのは皆が新入社員という横並びから時が経つほど空いていきます。

その時に、一切のコンプレックスを持たずに人と接することが出来る人というのは皆が思っているより多くはないでしょう。

また、結婚・出産も然りです。

「家庭」というのは悲しいことに趣味であり、ステータスですから。

特に女性はそういう理由で「友達」が減っていくのではないでしょうか。

だから本当は、「友達」の前提となっている対等性というのは、実は凄く脆いものの上に成り立っている気がします。

それを身を持って体感した瞬間でした。

何だか、心がスーッと冷えてしまいました。

それで、これからその友人とどう付き合っていくのかまだ私の中で答えは出ていないけれども、私の中で「友達」がいなくなったというのは確かなのです。

けれども、本当は初めから「友達」なんてものは無かったのかもしれません。

おそらく、私が他の人に対して思うほど、他の人は「友達」なんてものは重く捉えていないのだろうということは分かっています。

一緒に暇つぶしをするという、ただそれだけの存在なんだろうなと。

だから、皆結婚して家庭を持ちたがるのです。寂しくて、暇だから。本当に社会人にとってはいい趣味ですよ。

まぁ、それが身を持って分かっただけでも良しとします。勝手に期待した私が悪い。

また一つ、自分の中の「尊いもの」が零れ落ち、世の中に絶望せざるを得なかったという、なんとも身勝手な話でした。

社会って、ホントに狂ってんな。

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