映画『TENET』の個人的な感想と解説【メタ視点編】

パンフレットを買いたくなるというのは良い映画だという事です

ネタバレあり。作品の鑑賞を前提としています。

映画『TENET』の個人的な感想・解説です。

【世界観編】では鑑賞者の視点からの感想・解説を書きましたが、この【メタ視点編】では、制作者側の視点からの感想・解説を書こうと思います。

すなわち、作品を作る側に立って、この作品の何が素晴らしいのか・何故そういう演出やストーリーにしたのかということを考察していきます。

クリストファー・ノーランの現時点最高傑作『TENET』

評価:星5★★★★★

評価は星5、最高評価です。

というのも、この『TENET』は現時点でクリストファー・ノーランの最高傑作だと私は思うからです。

『フォロウイング』から始まり、『メメント』、『ダークナイト』、『インセプション』、『インターステラー』、『ダンケルク』と傑作を世に出してきたノーラン監督ですが、『TENET』に至り、それらで培ったものが一つにまとまった感じがします。

以下に続く項目では、シナリオ(脚本)・映像(撮影)・演出(監督業)の3つの観点から作品を分析していきますが、ノーラン作品に初期から見られる伏線を回収していくシナリオ、実写にこだわった迫力ある映像は言わずもがな、それらを如何にしてまとめたのかということに注目すべきです。

最上の映画体験を目指すノーラン監督が長年温めてきただけの作品であることは間違いないです。

回文構造のシナリオ

【世界観編】では『TENET』は美しい回文構造を味わう作品で、本来的にも理解は不要であるということを述べたのですが、その美しい回文構造自体はノーラン監督の脳で、すなわち理解できるように時系列に沿って作られていったはずです。

従って、それらは私達にも理解可能です。

ではノーラン監督の頭の中を、シナリオの何処から解説していくのかということなのですが、まず私達が踏まえておくことは、この映画はあくまでも「スパイ映画」だということです。

ノーラン監督はかねてより『007』シリーズに対するリスペクトを公言していたのであり、『TENET』はその文脈を踏まえたもので、SF映画でもなければ、ミステリー映画でもないということを十分に注意しなければなりません。

そして、スパイ映画に必要なものと言えば、何よりも「世界滅亡を企む敵vs世界を守る秘密組織」という枠組みです。

パンフレットにも書かれていますが、『TENET』でわざわざ世界各国を回ったのもそういう世界スケールの攻防戦だということをアピールするためであり、「セイタ―vs主人公勢力(TENET)」というのは既定路線です。

そして『TENET』においては世界の命運を握る鍵が、プルトニウム爆弾のような世界を物理的に破壊する核兵器ではなく、世界の物理法則そのものを破壊する「アルゴリズム」であるという点だけが特徴的なものであり、それ以外は実は従来のスパイ映画のフォーマット通りです。

しかし、さすがノーラン監督。

ノーラン監督は物理法則の中でも「時間の向き」そのものを巡る戦いに物語を設定しました。

後にも述べるように「未来VS過去=現在」、後ろからの時間の流れ(順行)と前からの時間の流れ(逆行)の押し合いの結果、現在が確定して時間が前へと進んでいるというオリジナルな時間観。

これを生み出したことこそが、この作品の出発点になっていると私は考えます。

(※「逆行」についての考察は【世界観編】を見てください。)

ひいては「回文構造」、前と後ろから全く同じ過程をたどって一つの点に行きつくという閉じた完全な世界構造を作品の核に据えることが出来たのではないでしょうか。

それは同時に、「逆行」という扱いにくい概念をエンターテイメント性を損なうことなしにどう観客に説明するのかということが問題になります。

(※もしかしたら、ノーラン監督は「SATOR AREPO~」の回文をそもそも知っていて予め頭にストックしていたのかもしれませんが、いずれにせよ上記の時間観を発明しない限りはスパイ映画として話が成立しません。)

何処から物語を始めるかという問題

回文構造のシナリオにおいては、物語を何処から始めるのかということが最初の問題になります。

何故ならば、それが回文構造だと分かり始める(対称点が分かる)までは何をしようとしているのか、果てには最後まで全体を見ても回文だと気付かない場合があるからです。

だからといって、「今から書くのは回文です。見ててください」と最初に言付けするのは冗長ですし、何よりも気がそがれてしまいます。

『TENET』でも、【世界観編】で説明した「逆行」という概念を如何に鑑賞者に自然かつ簡潔に説明するかということが、まず何よりものシナリオ面での問題となります。

しかし同時に、「逆行」という理解し難い世界観を最初から説明しようとすると、頭が混乱する上にエンターテインメント性がそがれて、鑑賞者は脱落してしまいます。

そこで、ノーラン監督は冒頭にアクション性の高いオペラハウスでのプルトニウム奪還作戦の場面を描写し、その中でニールと「逆行弾」を見せつける構成にしました。

最初の「つかみ」の後に、事情と世界観を詳しく説明して、ムンバイの場面へと繋がる。

こういう構成は一見当たり前のように思えるのですが、当たり前に思えるという事は非常に良く計算されているという事であって、エンターテインメント性を最後まで損なわないようにするということをノーラン監督はまず第一に置いているのだろうという事が良く分かります。

これを例えるならば、「N」をノーラン監督はまず書いてみせたということが出来ます。

左から文字が書かれ始めて、人々は何が書かれるのかと注目する。

すると、途中で手が止まり今度は右側から同じように書かれ始める。観客は何をしたいのか分かりません。

しかし「N」が完成して、「N」というのは点対称かつ前と後ろから同じ書き順を辿ることが出来て、どちらも「N」だという説明をすることで、この作品は「そういう作品なんだ」と少なくとも最後には理解することが出来る。

後は「T」でも「E」でも書いて行けば良いのです。

こういうシナリオの構成に感動した次第でした。

「マックス=ニール説」

『メメント』や『インターステラー』で見られたように、散りばめた伏線を集めていって最後の場面に繋げていくというのはノーラン脚本の一つの特徴ですが、『TENET』においてもそのような伏線要素というのは見ることが出来ました。

それが巷で「マックス=ニール説」と言われているものです。

これはキャットの息子のマックスとニールが同一人物ではないかという説ですが、ラストシーンで意味ありげにマックスを見つめる主人公や、マックスの本名「Maximilien」を反対から読むと「ニール」になる事などから支持されているものです。

この「マックス=ニール説」に関しては多くの人が検証を行っているので、それについて詳細に検討することはしませんが、私がこれを取り上げたいのはこれが物語の「終わり」になっているからです。

例えば『インセプション』では「最後に回したコマが止まるか止まらないか=夢かそうでないか」という説が考察されていますが、『TENET』が決定的に異なるのは、作中で言及されていなくとも、回文という構造上明確に結論が決まるということが大きな特徴だと考えます。

私が強調したいのは、伏線というディティールレベルではなく、『TENET』に関しては構造的に「マックス=ニール説」が自明だということです。

それに、ラストシーンの前場面はニールと主人公の間の友情が主題にありましたから、その流れからしても、ラストシーンの主題はニールと主人公の関係性にあると考えるのが自然です。

主人公がマックス(とキャット)の命を救ったためにニールは主人公を命がけで助けた。

これは主人公がキャットを助けた理由も同様で、キャットはニールの母親だからです。

主人公は己の命を助けるから、ニール(=マックス)を助けたのです。

こう考えると、実は主人公というのは利己的な人間だとも受け取れるかもしれません。

主人公は冒頭場面で自らの命を顧みず、他の仲間を守ったから組織(TENET)に選ばれたという説明をされていました。そして、それは一見非常に利他的な人間です。

しかし、それは個人(自分の命)より組織・世界を選ぶ人間だからこそ、主人公が組織(TENET)のリーダーになったという裏付けに他ならず、主人公としては自分が一番落ち着く方法を選んだというだけです。

世界を守るために、自身の半身には死んでもらう。自分が生きるために、世界を守る。そういう利己的な選択を行ったという風にも捉えることが出来ます。

こういった共時的な回文構造が『TENET』のシナリオの特徴です。事実があって、それは視点次第で印象が変わるというのがこの作品の核なのです。

「過去」VS「未来」=「現在」という時間観

映画は「発明」だということを、『スカイ・クロラ』の絵コンテ本のインタビューで押井守監督が話していたのを読んだことがあります。(※押井監督の持論なのかは知りませんが)

私が『TENET』を評価するのは、ノーラン監督が従来にはなかった時間観を発明したからということがあります。

これまでの時間観というのは過去・現在・未来という各時点があって、それらは離散的でした。ゲームのセーブポイントのようなイメージです。

従って、各時点へ進もうと考えた場合、その時点まで「飛ぶ」。こういう考え方が主流で少なくとも私はそれ以外の作品は見たことがありませんでしたし、それが当然のものだと思い込んでいました。

こういう時間観では、各時点では未来が確定していない(関連性が未知である)ので、改めて同時間軸の未来に進んだ場合、どうなるのか分かりません。それで「バタフライエフェクト(未来はどうなるのか)」を軸にした作品が自ずと作られます。

しかし、この『TENET』では過去・現在・未来が地続きになっています。

正確に述べると、未来の技術によってそれらが繋がってしまった。何によってかと言うと、それは「逆行装置」です。

作中では「逆行装置」として「回転ドア」の他にもセイタ―宛へのカプセルなども見られましたので、「時間逆行」についての技術は確立されているのだと思います。

(※【世界観編】で書きましたが、「アルゴリズム」は「逆行」とはまた性質の異なるものであり、故に唯一のものでそれの攻防戦になっています。)

『TENET』では、過去に戻るためにはその分だけ時間が必要で、「回転ドア」という見える折り返し時点で連続した時間軸を進みながらも、過去へ押し戻されていくという時間観が採用されています。

地続きになっている時間を全て「歩いて」移動します。

従って、作品の軸は「過去の変化で未来がどうなるのか」ということではなく、「過去からの時間vs未来からの時間」という陣取り合戦になり、アクション要素を絡めることが出来るようになります。

また他にも、違ったテイストの作品にもアレンジできそうです。これは素晴らしい「発明」だと言うほかないと思います。

何故主人公に名前が無かったのか

何故主人公に名前が無かったのかということですが、主人公は「神」と同等の立場にあったからだと考えます。(作中では「黒幕」だと表現していました。)

それは作中の作戦(出来事)は組織のリーダーとして全て自分が仕組んだという意味がありますが、もう一つ重要なのは主人公が「対称点」という特異点にあったことにあります。

つまりは、作中世界の全ての出来事が主人公に向かって集約するのです。

作品の最後に世界は主人公のものであり、主人公は世界の為に働いていたことが明かされます。

主人公が世界を守ったということは、主人公の意一つで世界を滅ぼせるとも考えることが出来るということです。

これには些かメタ的な要素も含まれていると考えますが、私達が主人公を主人公だと認識する限り、作品世界は主人公を中心に回ります。

先に述べたように、それは名もなき男が何よりも全体の利益を優先する人間で、どんな任務も忠実にこなす利他的な人間だから主人公に選ばれたということなのですが、その裏返しで利己的だとも受け取ることが出来るのと同様です。

そもそも「逆行」側のセイタ―からしてみれば、敵は主人公な訳ですから、これも視点の問題だという事が言えます。

まあ、もしかすれば単純に特殊部隊のルールで名前が与えられていないだけなのかもしれません。

その場合、名前が無いことは「記録(ログ)」に残らないという点でも作戦のジョーカーになり得る存在です。

いずれにせよ、名前が主人公に与えられていないというのは良く出来た設定だなと思います。

実存主義と「視点」・「見方」の問題

注)作品の内容と関係がない上、難解な知識が出てくるのでこの項目は読み飛ばした方が良いです

『TENET』では、理解を放棄することを理解した後の「共時的な感覚」がこの作品を観る観客に求められているということを【世界観編】で説明しました。

そして、理性を放棄して目の前のものを「感じろ」という共時的な感覚を鑑賞者に要求するこの試みは、実は近代では一つの大きな課題として様々な分野での挑戦が行われてきたテーマでもあるように思います。

恐らく、特にニーチェの思想及び実在主義が台頭してきた辺りからそういう試みが盛んになったのだと私は思うのですが……、ここら辺に関しては私も大学時代に結構勉強したものの、「結局何?」と思った上、殆ど忘れてしまったため知識は怪しいです(^^;

ただ一つ言えることは、私的には「神(絶対的な理性)を殺す」という試みがニーチェ以降今に至るまで続いてきたのだと考えています。

例えば、リアリズムの反動としての象徴主義は考えようによってはそのような試みだと捉えることも出来ますし、量子力学分野の発見から「視点」をテーマにすることが増えた現代までの流れもそうだと言えます。(エッシャーなどの「メタ視点」作品もそう)

そして、これの最たるものがゲーデルの『不完全性定理』だと私は考えます。

数学者のゲーデルは自己言及的な問題の一つを体系内の形式的な手続きで解くことは出来ないという視点で『不完全性定理』を証明しました。(※この表現は普通に間違っています)

これにより全ての数学の問題が解ける単一の形式体系がないことが証明されました。(※別に数学が「不完全」だという証明ではない)

そのような試みは今日に至るまでゲーデル以外、私の知る限り一つとして成功しなかったように思います。

何故ならば、現実世界に生きる私達は他でもない体系的かつ通時的な理解によって物事を良く把握しているからです。

ゲーデルが成功したのも、皮肉なことに数学という理論体系があったからこそであり(それはヒルベルトに対する予期せぬカウンターだったという歴史的背景を踏まえる必要がありますが)、そのような枠組みなしに物事を認識するというのはそれこそ悟りの域です。

そういう意味では、目の前のものをそのまま「感じる」というのは仏教の考えに近いものがあります。

ただそのような試みも結局、西洋的な神を東洋的な神に挿げ替えようとしているだけなのかもしれないと考えてしまう点で根本的にこの世界には限界があるのだろうと感じる次第です。

『サムライ8』がやろうとしたこと

ちなみに上記のような試みは割と直近、漫画界でも見られました。『サムライ8』というジャンプ漫画です。

『サムライ8』は『NARUTO』の岸本斉史先生が原作を手掛けるということがあって連載前は大きな期待がされていたのですが、蓋を開けてみると、連載途中打ち切りという形で終了したばかりか、作中の枝葉にツッコミが入って世間で正当な評価すら受けていない印象があります。

しかし、私は『サムライ8』には実はかなりの期待をしていたのです。

というのも、漫画界の大御所が一番売れている漫画雑誌において、そのような難しいテーマで物語を連載するのだということに気付き、どう物語を見せるのだろうと思っていたからです。

『ハンターハンター』の冨樫先生しかり、大御所の方がこういう実験的なことをして頂くのは有難いですね。

『サムライ8』のラストは、主人公の八丸自身が実は追い求めていた世界を救う手段そのものであったというオチなのですが、「見方」や「視点」を変えれば物事は異なって見えるという主張を伝えたかったのかなと思います。

要は『TENET』と同じ題材を扱っていました。

ただ、この『サムライ8』は結果から言うと失敗に終わりました。これは鑑賞者が脱落してしまったということに他ならないのですが、『TENET』が十分に気を付けていたエンターテイメント要素と世界観説明の配分を間違えたのだというのが結論です。

『サムライ8』を見る限り、やはりどうしても「何処から始めるか」という問題がかなりネックになっていた気がします。世界観の説明で多くの読者が脱落してしまったのでしょう。

(同時に、作者のネームバリューというのは読者のそういう我慢に繋がらないのだとも学びました)

その点、上手く難解な主張とエンターテイメント性のバランスを取った『TENET』は、この手の試みの中では私の知る限り一番成功した娯楽作品だと思います。

非現実の実写映像と映像のメタ的限界

ノーラン監督が実写映像に極力こだわり、IMAX撮影するという話は有名なものですが、『TENET』もその例外でなく、迫力ある映像を楽しむことが出来ました。

例えば、旅客機をぶつけるシーンでは本物のボーイングを実際にぶつけたそうです。

『ダークナイト』の病院爆破やバイクが本物ということにも大概驚きましたが、まさかまるごと本物の飛行機を破壊したというのは驚きです。

また他にも、おそらく『ダンケルク』で培ったであろう地上戦のシーンや、『インセプション』での非現実的なシーンを彷彿させるものもありました。

そういう今迄の経験を全て結集させたような映像、ある意味では作り慣れた画面を使ってきたなという印象です。

ただ、私が本作で注目したいのはそういう実写へのこだわりの中でも「逆行」を表現した部分です。

本作の「逆行」アクションは全て実際に行っていると知って、私は驚きました。

本来の動きでは有り得ないような動きを行った上に、演技として格好良くキメなければならないのですから、演者は大変だったと思います。

しかし、「逆行」については単なる逆再生映像の連続ではダメだったであろうことは映像を見れば感覚的にも分かりますし、何より「視点」を考えれば当然です。

というのも、鑑賞者である私達は常に「順行」世界に居て映画を観るのですから、その視点が変わらない以上、映像もなるべく同じ「順行」の視点で撮らないと違和感が生じてしまいます。

(※すなわち、デジタル的な逆再生映像にはどうしても違和感を我々は抱きます。そして、意図していない違和感は鑑賞の邪魔になってしまいます。)

それで、主人公が「逆行」している間の主観映像はノーラン監督もどうしようか一瞬ためらった感じが見受けられました。

しかし、結局は鑑賞者は決して「逆行」することはないのだから「順行」視点の映像でいいと判断する他なく、撮影の技術うんぬんではなく、そういうメタ的な限界に挑戦したことに本作の映像の意義があったと考えます。

ノーランの監督としての働き

取り上げるのは主に配役の面ですが、他にも優れた働きはあるのかもしれません。

【世界観編】で触れた『クリストファー・ノーランの~』の解説本をまだ手に入れていませんので、それを読めばまた意見が変わるかもしれません。

ただ、少なくとも以下の決定はノーラン監督の優れた感性によるものだったと思います。

エリザベス・デビッキの起用

配役という面でいうと、私はキャット役のエリザベス・デビッキの起用が一番大きなものだったように思います。

なぜならば、莫大な富を手に入れながらも、世界までも自分の思い通りにしようと目論むほどの男(セイタ―)が「過ち」で子どもを儲けてしまいたくなるような魅力的な女性でなければならないからです。

彼女をキャストしたことが作品に説得力を一気に持たせたと思います。

セイタ―のような成り上がりの大金持ちはトロフィーワイフと言いますか、横に装飾品のように置いておきたいような女性を選ぶというステレオタイプ(事実?)があります。

長身・金髪(地毛ではないと思います)・美人と3拍子が揃った彼女は、そのイメージにピッタリの女性だったと思います。

私はスクリーンで初めてこのキャットが登場するシーンを見たとき、「凄い綺麗な女優さんだなぁ」とビクッとしました。そして、これが配役の説得力かとハッとしました。

身長も191cmと、日本より平均身長が高い海外女性の中でも一段抜けていて、画面の中でも一際目立った存在になっています。(というか、男性陣より背が高いです。)

カーチェイスのシーンで後部座席から足を伸ばして前座席の扉の鍵を開けるシーンなどは彼女でなければ出来なかったのではないでしょうか。

この世界レベルでの長身女性を支配下においておきたいという部分がセイタ―の写し鏡として陰ながら良く機能していたように考えます。

ともかく、エリザベス・デビッキが画面を華やかにして、『TENET』という作品は説得力という色どりを得たのは間違いありません。

作品のヒロイン「ボンドボーイ」

ノーランは『007』シリーズが好きだという事は前々から公言しており、この作品はそういうスパイ映画だと明言していることもあり、そうなればヒロイン(ボンドガール)は作品の印象を左右するという点で重要です。

しかし、キャットは主人公に恋愛感情を抱いておらず、一緒に行動することは少ないため、厳密には「ボンドガール」という立ち位置ではないです。

では、「ボンドガール」は誰なのか。

この作品における主人公の相棒かつヒロインは事実上ニールです。

ボンド「ガール」ではないですが、ニール役のロバート・パティンソンも『トワイライト』シリーズの恋人役を演じるだけあって長身・イケメン・細マッチョと3拍子が揃ったイケメンです。

そして主人公はニールを自身の半身として見初め、そして二人は出会う訳ですから、これはヒロインの他ありません。

ちなみに髪の毛は他の映画の兼ね合いがあって金髪にしていたようですが、「マックス=ニール説」からしても、母親と同じ金髪にせねばならないというのは決定事項でもあったように思います。

ノーラン監督が凄いなと思うのは、こういうアングロサクソン的な価値基準を中心に据えながらも、ヒロインを男に、そして主人公に黒人を起用することで極々自然にポリコレにも配慮した「ガワ」を用意したことにあります。

昨今、特に海外作品は映画のみならず全ての分野でポリコレに配慮した作品作りをすることが求められており、それは時に作品の評価を下げてしまう程の表現に対する縛りとなっているケースが少なからず見受けられます。

例えば、『007』のお決まりに乗っ取り『TENET』でもエリザベス・デビッキが主人公の相棒だった場合、一定の層?が拒絶反応を示したであろうことは容易に想像できます。

主人公が白人のイケメンであれば、更に反発があったでしょう。

しかし、ノーラン監督は『007』へのリスペクトを捧げつつも、ヒロインを「男」にするという天才的な一手を打つことで全ての問題を解決したのです。

その余りにもピタリとハマったピースは、全体として上手く機能していて、ニールはイケメンの男でなければならないし、主人公も黒人でなければむしろ落ち着かないという全体のバランスを支える支点となりました。

ああ、そういう発想があるのかと、ノーラン監督は凄いなと改めて思った次第です。

まとめ

パンフレットを買いたくなるというのは良い映画だという事です
パンフレットを買いたくなるというのは良い映画だという事です

【世界観編】と【メタ視点編】ということで、鑑賞者側と制作者側の視点から『TENET 』について私なりの感想と解説を書きました。

私は内容的にも、ノーラン監督の意気込み的にも本作が最高傑作だと考えています。

ただ、ネット上の評価を見る限りはあまりそういう感じではないですね^^;

思っているよりも世の中の人は作品を「理解」したいようです。そうではないという所がこの作品の素晴らしい所なのに。

興行収入も、今年のコロナの影響で海外では全然振るわなかったようですし、売れたのは日本ぐらいだったようですね。

ただ、私はそれでもこの作品がクリストファー・ノーランの最高傑作であるという立場を変えるつもりはありません。

変えるのは、ノーラン監督が本作より素晴らしい作品を世に出した時です。

気になった人はこの作品を是非見て、更にもう一度見て私の言わんとしていることを「感じて」欲しいです。作品に対する理解を理解で殺してみてください。

では、さよなら。

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