大学生は教養を身に着けるより大切なすべきことがあるという話とオススメの本

私が学生時代に読んだ本の一部

私は大学生の時、色々拗らせていたというのもあって、岩波文庫を始めとした古典や専門外の分野の本を無駄に広く読み漁っていました。

その上で言えるのは、大学生は教養を身に着けるより大切なことがあって、それをしなければいくら教養を身に着けても無駄になるということです。

何故ならば、教養というのは「隠し味」だからです。

貴重な大学生活、私のように悪戯に時を消費して欲しくないという想いです。その上で私オススメの教養本をいくつか紹介します。

大学生時代に教養を身に着け過ぎた私の末路

私は大学生の時、鬱になって苦しんだりもしていましたが、その傍ら多くの貴重な時間を「教養」の勉強に費やしていました。

例えば、私は経済学部だったので、マルクスの『資本論』やアダム・スミスの『道徳感情論』といった鉄板的な古典はもちろん、ケインズやシュンペーター、ガルブレイズなど教授達が勧める教養の類は片っ端から読んでいました。

また、それでは飽き足らず、社会・人文・自然科学といった分野には囚われず、少しでも知っておくべきだと思ったものには全て幅広く手を出していきました。

私が学生時代に読んだ本の一部
私が学生時代に読んだ本の一部

上の画像のような本というのは私が読んだ中のほんの一部に過ぎず、全てを挙げようとすると余りにも数が多くてキリがないのですが、

主に哲学ではニーチェやヴィトゲンシュタイン、ボードリヤール、社会学ではウェーバーやルーマン、心理学ではユング、自然科学ではウィーナー、数学ではヘーゲル、文学ではボルヘスといった古典を好んで読んでいました。

それに、脳科学や進化論なども私にとっては興味深いものだったので、なるべく新しい情報を仕入れようと心がけていました。

という風に、私は教養だけならば相当身に着けたという自負があるのですが、それらは結論から言うと、全く1ミリたりとして役に立つものではありませんでした。

(※しかも、そうやって頭の中に入れた内容も再度読み返せば何とか思い出すことが出来るものの、今となっては大体が抜けています。)

それは後に述べるようにも、教養というものは「隠し味」であって、自分のベース、軸となるものが存在しなければむしろ邪魔にすらなってくるという事情があります。

それでも、そのとき私が懸命に「教養」を身に着けようとしていたのは、それさえ身に着けば何か人間として深みが出て、新しいものが見えてくるのだろうと信じていたからでした。

それに、授業をする教授達は皆揃って「『○○』ぐらいは読んでおかないといけない」・「教養を身に着けた方がいい」などと言っていたので、私はそれを信じて疑わなかったのです。

しかし、今考えてみると大学教授というのはあくまでも自分の興味関心のある専門分野を研究している人たちで、自分の守備範囲があるのです。

その上、彼らは社会ではかなり特殊な職業なのであって、そういう人間の言葉を真に受けているとドンドン社会からズレていくのですが、高校を卒業したての私はそれがよく分かっていなかったのです。

結局、私は大学を卒業しても「専門」と言える自分の得意分野を身に着けることが出来ませんでした。

それで苦労したのは、何よりも就活でした。

大学で勉強したことが上手く言えないのです。

集英社に出したES1枚目などを見て頂くと分かるのですが、私は経済学部を出たのにも関わらず「ソフトロー」という法学分野や、「社会システム理論」という社会学分野を勉強したと書いています。

しかし、これも怪しいものなのです。勉強したと言えば結構勉強したのですが、確実に「専門」だとは言い切れないのです。

貴重な大学生活の多くを割いたのにも関わらず、その意義を説明出来ないのです。それで面接などでは上手く説明できなかったりして、悔しい思いをしました。

「教養」はそれ単体だけでは何の意味も価値もないのです。

教養学部(系)は墓場だから覚悟が必要

それに関連したエピソードがもう1つあります。

実はこれまで述べてこなかったのですが、私は1回目の就活をサイレントで終えた後、大学院へ進学することを考えていました。

そして、学部では実質的にそのような教養ばかり勉強していたことがあって、経済学部の大学院へ進学する気はなく、とある大学の教養学部(系)の院へ行こうと思っていました。

こういうような経済学が教養学部に存在したりする
こういうような経済学が教養学部に存在したりする

それでゼミ見学へ行ってみたのですが、結果から言うと「教養学部は墓場だ」と思って進学を辞めました。

こんな馬鹿馬鹿しい所で2年も棒に振るのは余りにももったいないと。

そして、私はこんな下らないことに多くの貴重な時間を費やしたのかと。

何故私がそう思ったのかというと、それは外部の人間として授業の様子を客観的に見て、「教養」というものが余りにも馬鹿げていると思ったからです。

教養学部は魂の抜けたゾンビ達が話しているだけなのです。

私が見学に行った時の授業内容は、確かゼミ生が研究しているテーマを持ち寄ってそれについて皆で話すというものだったのですが、本当に不毛な議論のように思えました。

高田保馬の理解ではこうだけど、宇野弘蔵はマルクスをこう理解していたとか、宇沢弘文はこうだ、それはフーコーやアリストテレスはこう言っていたとかいう話を狭い教室の中でして、一体何が生まれるんだ?と。

確かに私も、現代の主流派経済学の考えやそれを利用した経済政策というものが正しいとは思っていないけれども、話が通じる身内だけでそんな知識の披露会をして満足してるだけだから主流派に好き勝手やられているのだろう、社会が変わっていないのだろうと無性に腹が立ってきたのです。

結局、そいつらも現代資本主義のおこぼれを吸って生きている寄生虫であって、それがいくら主流派を別の視点から批判したところで、ただの茶番ではないか。

初めから説得力が無いに決まっていて、だから主流派と対等に戦えない。

その時に私は、社会を少しでも良い方向に導きたいならば、やはり社会の中で戦わなければいけないと思ったのです。

それで就職しようという気になったという経緯があります。

まあ、私は就活社会人生活も上手くいかなかったのですが^^;

しかし、よく考えてみると「教養学部」というのはジェネラリストの育成、つまり初めから「専門を持たないこと」を専門にしている学部です。

それは一体、社会のどこで需要がある専門なのでしょうか?

……恐らく「教養学部」でしか需要がないのです。

何故ならば、経済というのは視野狭窄による専業化(分業)と交換によって発展してきたのであって、「専門がない」というのはその時点で経済への参加枠が殆どないのです。

だから私も教授との面談で最初に言われました。

「教授のポストは空かないよ」と。

それは当然で、結局そういう風に「教養」を専門にしてしまった人達はその時点で社会の中では生きにくくなるのです。

教養だけを身に着けても金にならないのです。私みたいに。

ですから、教養学部(系)の学生及びそれを目指している人は十分に覚悟を決めるべきです。

教養の勉強ならば、いつでもどこでも出来ます。

墓場ですよ。そこは。

教養というのは「隠し味」である

以上のような経験から、「教養」というものについて言えることがあります。

それは、教養というのは「隠し味」であるということです。

これが意味する所は3つあります。

①ベースとなる分野が無ければ意味がない

②多すぎると元の軸がブレてしまう

③むやみに見せびらかすものでも、自慢するものでもない

少し凝った料理を作ったことのある人ならば分かるはずですが、「隠し味」というのはベースとなる主要な食材の味を引き立てるために少量だけ加えるものです。

その量や種類が多すぎれば、たちまちにバランスが崩れてしまい、元の料理からは逸れていきます。

適切な量と種類を加えた時に、単純な材料の組み合わせ以上の美味しい料理になるのです。ですから、人によっては何をどれだけ加えたのかむやみに言わないことがあります。

「教養」というのは、まさにそのような料理における「隠し味」と一緒です。

専門分野や興味のある対象を定めた上では、教養というのは深みのある考えや閃きをもたらしてくれます。

しかし、教養として取り入れた知識が自分の中で消化しきれなければそれに引っ張られてしまい、自分の立場や考えを崩してしまう場合があります。

またそして、十分に教養を身に着けた人であるならば、それを無駄にひけらかしてマウントを取るようなことは決して無いはずなのです。

何故ならば、そもそも教養自体には何の意味も無いと分かっているからであり、純粋な善意以外から種明かしをしようとは思わないからです。

従って、大学生が身に着けるものは何よりも自分の「専門」であり、「教養」というのはそれに合わせて塩梅を見て着けていくのが良いと思います。

読まなくてもいいけどオススメの教養本

以上のように、自分の専門や軸、興味の対象が定まらない限りは「教養」というものは基本的に必要ないもので、むしろ身に着けない方が良いものです。

それを踏まえた上で、教養マニアの私がオススメする教養本を3冊挙げてみます。

『利己的な遺伝子』
『利己的な遺伝子』

『利己的な遺伝子』はとても有名な本で、他の本でもその名前が出されることが多いです。

それもそのはずで、ドーキンズがこの本で主張することは「生物は遺伝子の乗り物である」という衝撃的なものだからです。

確かにそれは極端な主張にも思えるので色んな反論があるのですが、そういう議論を理解する意味でも読んでおいて損はない一冊です。

『養老孟司の人間科学講義』
『養老孟司の人間科学講義』

『バカの壁』で有名な養老孟司の本もまたオススメしたいです。

個人的には、この本より『唯脳論』の方が興味深いものだったのですが、こちらの方がより範囲が広いので、文理問わず何か引っかかるものがあるのではないかと思います。

養老孟司はそれこそ「教養深い人」であって、解剖という自分の専門をベースにした考えは非常に面白いです。

最近、Youtubeでは「養老孟司切り抜きチャンネル」みたいなものが出てきているので、また一部では流行るのではないかと思います。

早川書房〈数理を愉しむ〉シリーズ

最後に挙げるのは、早川書房から出ている〈数理を愉しむ〉シリーズの、「統計」に関する本です。

この2冊で分かるのは「人間の理性の限界」だと私は理解しています。

『偶然の科学』では、人間の合理性だけでは対処できない不確実性が世界には存在することが述べられます。

また、『「偶然」の統計学』では、人間の認知バイアスについて述べられます。

確率的には発生するにも関わらず、ある出来事が余りにも有り得ないことのように思えるため、そこに特別な意味づけをしてしまう特性について述べられます。

それは、私が鬱になった経験で分かった人間の特性でもあります。

自分の方向性を固めた上で、それに深みを出す自分だけの「隠し味」を見つけることを私は願っています。

では、さよなら。

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